vol.28
マルティン・シュリークの浮遊力「ガーデン」
不思議な映画に出会った。
95年の映画、ガーデン。
監督はマルティン・シュリーク。
音楽はウラジミール・ゴダール。
日本では2003年に「マルティン・シュリーク/不思議の扉」という
上映会が行われ、その中の1作品として紹介された。
ヤクブという主人公の名前からして、おとぎ話の雰囲気がある。
ましてや「奇跡の処女」と出会ってから、不思議なことばかり起こる。
ルソーやウィトゲンシュタインという人物も出てくる。
しかし主人公は不倫をしているし、親父ともそりが合わない。
おとぎ話とは正反対の世界で生きている。
これらをつなぐのは、タイトルにもある「庭」。
主人公の動きが止まると流れる音楽がある。
管と弦楽器の、静かで心地よく、明るい音楽。
それは、どんな深刻なシーンでも変わらない。
登場人物は、互いに関わり、様々な経験をしながら
少しずつ変わっていく。
「庭」を触媒にして変化を遂げる。
彼らは徐々に幸せに近づく。
そこでは、常識などは関係ない。
常識から解き放たれることで幸せに近づく。
常識から彼らは浮遊する。
浮遊を助けるのは、静かで心地よく、明るい音楽。
この映画、ものすごく、自分好みの映画です。
vol.27
エイミー・マンの規定力「Magnolia(サントラ)」
99年の映画、Magnolia。
ポール・トーマス・アンダーソンは、
監督2作目の「ブギーナイツ」で有名なった後
3作目としてこの映画を制作した。
前回紹介した映画 Good Will Hunting と同じく、
この映画も音楽が主役だ。
「僕はエイミー・マンの音楽を脚本化する作業に取りかかった」
と監督自身が言っている。
Good Will Hunting との違いはここにある。
監督は、音楽にある「世界観」だけでなく
歌われている詞をも映画に取り込もうとした。
しかしエイミーの曲は、それ単独で充分成立するものだ。
すでに、音楽自体に人の悲哀が満ちている。
監督は、エイミーの曲をモチーフにすることに
拘りすぎたのかもしれない。
音楽は、映像以上にその場の心情を規定する。
良くも悪くも決定し、説明してしまう。
説明しすぎるという危険さえある。
だから、映画に取り込むのは詞ではなく
音だけで充分だったのかもしれない。
この監督、音楽の使い方のうまさは
次の作品 Punch-Drunk Love を見れば分かる。
vol.26
エリオット・スミスが伝えるもの
「Good Will Hunting(サントラ)」
97年の映画、Good Will Hunting。
この映画で、エリオット・スミスの音楽は全面的に使われた。
その音楽は、本当に衝撃的だった。
極めて内省的でありつつ、極めてポップ。
ヒリヒリを超えた痛みが、頭蓋骨の奥に広がる。
映画の中では音楽が主役だった。
音楽の後方で、映像が、ストーリーが流れていく、
そんな印象さえ与えるほどだった。
映画を作るために音楽を作ってほしいと頼まれた彼は新曲を作り始めたものの順調には作ることが出来ず、結局ほとんどの曲はそれまでに作っていた曲となった。
歌を作るという行為はこれまで通りだったものの注文を受けて作るというやり方が、彼には合わなかったのか。
しかし考えてみると、それまでに作っていた曲がその映画を支配するほどの力を持っているのだから、彼が既に、その映画を作っていたとは言えないだろうか。監督よりも先に。
彼はこの後、ドリームワークスで2枚のアルバムを作った。
きっと締め切りを意識し、追われながら。
そして、2003年の秋、34歳で他界した。
vol.25
スケッチ・ショウの美しさ 「tronika」
「世界平和のために我々が出来るのは、日々の生活の美しさを維持すること。
そして、その美しさにひたすら拘ることだけだ」と、誰かが書いていた。
残念ながら今の世の中では、声高に平和を主張しなければならないときも確かにある。
しかし、毎日デモを繰り返しても、そのメッセージは色褪せてしまう。
そうではなくて、誰にでも毎日出来ることは、日々の生活を良いものにしたいと願い、
美しいもので身の回りを満たすこと。
例えば、おばあちゃんから受け継いだ家具、きちんと整理された写真のアルバム、
お気に入りのレコードやCD。
これらを壊されたくないと、世界中の人たちが願うこと。
そして、世界中の人たちがそう願っていると信じられること。
みんながそう信じれば、世界は平和に回り続けることが出来る。
スケッチ・ショウの2人、高橋幸宏と細野晴臣は、きっとそう信じている。
今回発表された彼らの傑作ミニアルバムには、
CDエキストラとしてプロモーションビデオが収められている。
それは、音と同じくらい、面白く、美しく、びっくりする映像。
内容は敢えて言わないが、言葉の喋れない子供や言葉の通じない異国の人とも
一緒に楽しめる映像であることは間違い無い。
世界中の人が、このビデオをそしてこのミニアルバムを美しいと思ってくれますように。
vol.24
ザ・バンドの息「ラスト・ワルツ」
息の合った演奏、という言葉がある。
息、つまり呼吸のタイミングを合わせたような演奏。
演奏すること。それは歌うこと。
ドラムはドラムのフレーズを、ベースはベースラインを歌う。
それが演奏するということ。
歌う間は息を吐く。
そしてフレーズの継ぎ目で、息を吸う。
その、息を吸うタイミングが揃っていること。
それが息のあった演奏だ。
特にザ・バンドの場合は、実際にリードボーカルを取るメンバーが3人もいる。
そんな5人のメンバーが、5つの方向から一つの同じ歌を歌っているのだ。
このDVDは、ザ・バンド解散の際に撮影され映画になったもの。
解散するときも、彼らの演奏は息が合っている。
それは音楽の力。
それは歌の力。
vol.23
エヴリシング・バット・ザ・ガールの普遍性「哀しみ色の街」
久々に彼らの音楽を聴き返して思ったこと。
このアルバムは「アコースティックな2人組」であった彼らが1996年に、
ドラムンベースと呼ばれるクラブ系打ち込み音楽に転向した一作とされている。
つまり当時は、これまでのファンを裏切る「新しい」音楽だったのだ。
しかし今聴き返してみると、意外にオーソドックスな音楽であることに気づく。
「新しい」ものというのは得てして、何年か経ったら古くなってしまうものだが、そうではない。
理由その1。「曲の骨格が、これまでの良き音楽を踏まえていること」
- だから、打ち込み音楽でありながら、ギター一本でも曲として成立する。
理由その2。「生楽器本来の音を、彼らが知っていること」
- リズムは意表をつくものでありながら、一つ一つの音は耳に馴染むものだ。
理由その3。「歌心が染み渡っていること」
- これは説明するまでもないだろう。
これら3つの理由に共通すること。
それは、過去の音楽にリスペクトを持っていることだ。
過去へのリスペクト、それこそが新しくも普遍的になり得る条件である。
vol.22
カサンドラ・ウィルソンの永い命「トラヴェリング・マイルス」
音楽に触れること。それは人に触れること。
音楽に憧れることは、その音楽を作った人に憧れること。
カサンドラ・ウィルソン。彼女に憧れて僕らはこのDVDを見る。
カサンドラは既に、現在のジャズ界で崇拝されている存在。
その魅力を一言で言うと「器の大きさ」。
けれども、現在の自分に安住していない。
今もまだ、音楽を続けることによって、なりたい自分に近づこうとしている
その彼女が憧れるのは、マイルス・デイヴィス。
彼女はマイルスを崇拝し、その精神をフォローする。
今はもう死んでしまったマイルスだけれども、彼女の中で生き続けている。
またカサンドラも、マイルスが音楽を作り始めた1940年代からの人生を生きることが
できる。
マイルスが試行錯誤を続けた長い年月をも、自分のキャリアにすることができる。
そして、このDVDを見る僕らは、カサンドラの人生とマイルスの人生と彼らに影響を
与えた人々の人生を生きることができる。
こうやって僕らは永い命を得ることができる。
vol.21
ジョニ・ミッチェルとジャコ・パストリアスの音世界「シャドウズ・アンド・ライト」
ジョニ・ミッチェルは60年代後半から活躍している女性シンガー・ソング・ライター。
そしてこのビデオは、1979年、彼女が凄腕ミュージシャンを集めてカリフォルニアで
行ったライブ映像だ。
それぞれのメンバーは、それぞれ自分のアルバムを作るほど力量があり個性的だ。
だからと言って、個性を主張してバラバラになっているわけではない。
彼らは「音だけの世界」で何が良いかを共有している。
だから、彼らの音は一つの方向を向いている。
その会場には派手な照明もなく、服装もみんな格好悪い。
彼らは「音だけの世界」に生きている。
メンバーの一人、ベースのジャコ・パストリアスはアルコールとドラッグで壊れてし
まう寸前だ。
リハーサル中にいなくなってしまい、随分後に泥だらけになって帰って来るなど、こ
の頃から奇行が始まったと言われている。
彼は率先して、「音だけの世界」というユートピアに向かったのだろう。
そして87年に亡くなってしまう。
悲しくも美しいこのステージを、是非多くの人に体験してもらいたい。
vol.20
シャーデーの歌「ラバーズ・ライブ」
人は何故歌いたくなるのだろう?
アルバム「ラバーズ・ロック」を発売後のライブを収めたDVDの中盤、「キッス・オブ・ ライフ」という曲が始まる。
いてもたってもいられない、という様子で一人が立ちあ
がる。
それにつられてまた一人、立ちあがりリズムをとる。カップルが抱き合う。肌
の色の違う2人が踊り出す。いかつい体の男が、とろけそうな顔でメロディに酔う。
女の子が胸に手を当てて泣きそうな顔をして歌う。会場全体が歌で包まれる。
“あなたはくれた いのちのキスを”と、会場全ての人たちが歌っている。
みんな、その言葉を自分の口で声にしたいのだ。誰に聞いてもらうでもなく、大きな
声で口にしたいのだ。“あなたはくれた いのちのキスを”、と。
それは、平和で、心配事も忘れ、無防備で、嬉しくて、楽しくて、泣きそうで、満た
されていて、感謝して、幸せな時間。
そんな時、人は歌いたくなる。
vol.19
ジャイール・オリヴェイラの融合と共存 「アウトロ」
どうして異なるルーツの混ざった音楽は面白いのだろうか?
これは長年の疑問だった。
そしてとうとう、一つの仮説が思いついた。
それは「矛盾し得るものが破綻無く共存している」ということ。
体系立てられていて純粋なものは、世の中では意外と多い。
純粋なもの、つまりそれは、伝統的な芸能、正当だと認められた技法。
それらは「良きもの」という一つの頂点を皆が目指してヒエラルヒーの中に収まって
いる。
そしてそのヒエラルヒーのピラミッドの中には、かなり大勢の人数がいる。
ピラミッドの中の音楽は、頂点以外は珍しくも何ともなく、面白みがない。
そこに異文化が混入する。
最初は融合せずツギハギだらけで、どうしようもないものだろう。
けれどいつか、才能ある者がそれを融合させる。
そこでは、矛盾するはずのものが共存している。
つまり、有り得ないことが有り得ている。ここに価値がある。
ブラジルとイギリスと日本、これらの国は世界の中でも融合が起こりやすい国だ。
ジャイール・オリヴェイラはブラジルという国で、有り得ないものを有り得るものに
した。
No18
ジェブ・ロイ・ニコルズの音楽の力 - その2 「イージー・ナウ」
今回は「その2」だ。
なぜかというと、1年ほど前にも彼の「ジャスト・ホワット・タイム・イト・イズ」 というアルバムを取り上げたから。
その時僕は「音楽を言葉で人に伝えるのは難しい」と書きながらも、
なんとか彼の音楽の良さを伝えようとした。
けれども、僕の文章を読んで何人の人がそのアルバムを聞こうと思ってくれただろう
か。
たぶん、まだまだ力不足だったと思う。だから今回もトライさせてもらう。
CDにある宣伝文句はこうだ。
「緩やかに流れるグルーブ、アコースティック・サウンド。
ハートにあるのはソウル・ミュージック…」
これはこう読み替えて良い。
「緩やかな時間の流れ、そして仲の良い人と過ごす時間の楽しさ。
ここ何十年間の急速な都市化にも関わらず、昔から変わらない毎日の営み。
そんな単純な生活への愛着。
悲しみややるせなさを知ったことで覚えた他人への思いやり。
これら、人が失ったわけではない良きものがここには詰まっている。
これらを確かめたければ、この音を聞いて欲しい。
これらを思い出したければ、この音をあなたに聞いて欲しい」
ぜひ。
Vol.17
トーリ・エイモスと信じられる音楽「ストレンジ・リトル・ガールズ」
分業が進むほど、世の中に出回る品物の数は増える。
例えば、一人で自分の洋服を作るより、誰かが洋服を作ってくれるほうが、たくさん
の洋服が世の中に溢れ、僕たちはその中から好きな洋服を選ぶことができる。これは 幸せなことだ。
けれども、分業が進んで、洋服を作る人は自分のための洋服を作らなくなってしまっ
た。
自分が着たい服ではなくて、誰かが着たいと思う洋服を作ることが求められるように
なってしまった。
自分は着たくないけども、誰かのためだけに作るとしたら、これは幸せなことだろう
か?
そんな作り方で、そんな愛情の傾け方で、本当に良いものは出来あがるだろうか?
トーリ・エイモスのこのアルバムには、トーリ自身が聴きたかった音が詰まってい
る。
想像を超えた処理を施された音たちが、この中に詰まっている。
それは時に例えようもないほど美しく、時にクレイジーだ。
世の中の誰かが聴きたいと思う音楽、それを彼女は意識しなかった。
彼女自身が聴きたかった音楽を、全身全霊をうちこんで表現した。
だからこそ、今までこの世の中になかったものを、彼女は見せてくれる。
信じるに値する本物の音楽が、ここにはある。
Vol.16
チェット・ベイカーのハプニング「チェット・ベイカー・シングス」
例えば、自分の腕時計を作ってみようと思う人はいないと思う。
自分で腕時計を作るとしたら、どれだけの時間が必要かなんて思いもつかない。
この分業社会では、プロに任せて作ってもらい対価を支払うほうが、
機能が良くてデザインも良い時計を、手っ取り早く手に入れられる。
プロの腕前が上がったおかげで、昔は高価だった腕時計だが、
今では電池交換よりも安い時計さえ出回っているほどだ。
更に、腕時計を作るプロの中でも分業が行われる。文字盤を作る人、
針を作る人、ベルトを作る人、組み立てる人…。その中にはネジだけを
作る人もいるかもしれない。
毎日ネジばかり作っていた人が秒針を作ったらどうなるか?
ネジに比べれば秒針なんて簡単だと思いこんでいた人が、
秒針作りの難しさに初めて気づくかもしれない。
または、秒針ばかり作っていた人とは違った斬新な発想で、
今までになかった楽しい秒針が出来るかもしれない。
ジャズ・トランペッターのチェット・ベイカーが1950年代に吹き込んだこのアルバム は、 その名の通り彼がボーカルをとっている。彼はトランペットを吹くように歌を歌っ た。
だからそのスタイルには、従来のボーカリストとは違う魅力がある。
これは幸せなハプニングだ。
Vol.15
マニー・マークの人間らしさ「マークス・キーボード・リペア」
分業が発達することで、人は容易に良質な製品を手に入れることができるようになっ
た。
だが失ったものも大きい。
このアルバムは、日本人の血が少し混じったアメリカ人、マニー・マークの作品。
写真で見る限り冴えないおじさん。
ビースティーボーイズの立役者だなんて、写真からは想像もつかない。
一人、ベッドルームで作ったようなこのアルバム。
リズムは一定せず、ピッチも不安定。
とり直しなど一切しなかったような演奏。
これを聞いていると、まるで彼が「作ってみたから聴いてよ」と言って、自分の部屋
に遊びに来ているような気分になる。
一緒に話をし、彼の人となりを知ることができるようで楽しい。
前回紹介したジャネット・ジャクソンのアルバムを聞いても、彼女に近づけた気にな
ど絶対にならない。
色んな人が分業して完璧な世界を作っているから、彼女にはますます手が届かない。
しかし完璧な人なんていないし、そんな人間が作っている世界なんて完璧なわけがな
い。
分業で成り立っている世界に慣れきってしまうと、誰もがこのことを忘れてしまう。
マニー・マークは「完璧じゃなくって何が悪い?」と勇気付けてくれる。
Vol.14
ジャネット・ジャクソンと分業社会「オール・フォー・ユー」
分業が徹底した社会。今の先進国を一言で言うと、こういうことになる。
ジャネット・ジャクソンのこのアルバムに関わった人は、いったい全部で何人いるの
だろう?音を作る人、楽器を用意する人、写真を撮る人、ジャケットを作る人、宣伝 をする人、スケジュールを管理する人、予算を配分する人…。きっと色んな人が関 わっているのだろう。目のメイクだけをする人がいると言われても、それを信じてし
まいそうだ。
分業が進むほど、人それぞれが得意分野に集中できる。得意分野が集まると「人間が
出来ることの限界」は薄れていく。だから、仕事を細かく分ければ分けるほど、出来 あがる世界は、人々が頭に思い描く理想の世界に近づく。それはまるで、一日中ゴミ を拾い続ける人やジャングルを案内し続ける人がいる遊園地のような世界。
今という時代を謳歌したければ、今という時代でしか得られないものを得たければ、
分業が徹底した世界に飛び込めば良い。
Vol.13
大貫妙子の姿勢「ノート」
音楽は、その作者とは別個に存在し評価されるものである。しかし、避けようもなく
確実に、その作者の生活が反映されている。
このアルバムを聴くと、大貫妙子が姿勢よく佇んでいる姿が目に浮かぶ。自分の座標
軸を確実に保持し、毎日の生活から生まれてくる音楽をひたすら深める生活。周りか ら何を聞かれてもハキハキと答え、その返事は揺るがない。そんな姿。
大貫妙子は73年に山下達郎らとシュガーベイブを結成。その後約25年間もソロで作品 を発表し続けている。25年もの長い間、どんな経験をしてきたのだろう。いったい何
人の人たちと音楽を作ったのだろう。
今回のアルバムは、彼女を知り尽くした凄腕ミュージシャンたちが作った陽だまりの
中、大貫妙子が薄着ですっくと立っているような歌ばかりである。こういう音楽を聴 くと、自分もすっくと立てるような気がする。
Vol.12
アントニオ・カルロス・ジョビンの優しさ
MORELENBAUM2/SAKAMOTO 「カーサ」
音楽は一人で作るものではない。人はそれまで聞いた音楽に影響されて、音楽を組み
立て、奏でる。
その昔、権威主義への反発の中、パリで起こった印象派という絵画。その時代の空気
に触発された音楽を奏でたドビュッシーやサティ。彼らに影響を受けて音楽にのめり 込んだ、ブラジルのアントニオ・カルロス・ジョビンと日本の坂本龍一。ジョビンの残
した自宅でジョビンの曲を録音したい、そう考えた坂本龍一は、ジョビンと行動を共
にしていたモレレンバウム夫妻とこのアルバムを録音した。
使う楽器はピアノとチェロ。いずれも昔からある楽器。いつか誰かが考案し、数多の
人が改良を重ね、いつしかスタンダードとなった楽器。これらの音は、時間をかけて 丸くなった川原の小石のように優しい。
そしてジョビンの曲。数多の曲に磨かれたこれらの曲は、いとも簡単に時空を超え、
聴き飽きることがない。
「少し汗ばむ午後、素足で木の床に触れるひんやりとした感じ」がこのアルバムの印
象だとしたら、その後同じメンバーで録音された”LIVE IN TOKYO 2001”というアル バムは「凛とした冷たい空気の中、毛皮に包まれる暖かさ」というところだ。
これらは、人々が長い間慣れ親しんだ優しい感触だ。その適度な刺激は決して飽きる
ことがない。
Vol.11
カーティス・メイフィールドの光
現在のソウルミュージックは、教会の音楽であるゴスペルと酒場の音楽であるブルースが一つになって出来たものだと言われている。
ソウル、ゴスペル、ブルース。これらの音楽には垣根がある。ゴスペルシンガーが世俗の音楽であるソウルのレコードを出すと教会の人々に非難された、という話を聞いたことがある。また、一生ゴスペルやブルースしか歌わない人はたくさんいる。
先日、夜道を一人で歩いていると「ピープル・ゲット・レディ」という曲を無意識に口ずさんでいた。これはカーティス・メイフィールドというソウルシンガーの歌だ。この人の歌には、神に捧げられた歌もあれば、人種差別を非難する挑発的な歌もある。
ラブソングもあれば、アクション映画のサントラもある。彼のCDはたいていソウルの棚にあるが、一度はブルースの棚にあった。
彼の死後「ゴスペル」というCDが発売された。これは彼の歌の中でもゴスペル的な歌を集めたものだ。このCDの中に「ピープル・ゲット・レディ」の初期の録音が入っているのを思い出し、家に帰って聴き直した。
暗い夜道を一人で歩く人。そんな人々を力づける音楽にジャンルはない。夜道を照らす歌は、音楽がジャンル分けされるよりもずっと前から、人々の心の光となっていたはずだから。
Vol.10
スティングの静かな声 「オール・ディス・タイム」
これは、スティングが2001年9月11日にイタリアで演奏した記録である。
当日ニューヨークで起こったテロのニュースを聞き、スティングは演奏するかどうか悩んだ挙句、ライブの構成を練り直して決行した。そのライブの1曲目は「フラジャイル」。この曲は、テロに関する別のTV番組でもギターのみで演奏されたという。彼のこの曲への思い入れはそれほどに深い。
先ず歌詞を見てみよう。降り続く雨は涙に例えられ、流された血を洗い流す。そしていかに我々が「フラジャイル=もろく儚い」かを静かに語りかける。
スティングはこの歌詞を静かなメロディに乗せた。声高なプロテストソングではなく、鎮魂歌として奏でた。彼の2オクターブもある歌声は下半分に限定され、メロディはミからドまでも6つの音しか使われていない。リフレインはラから始まり4つの音しか経過せず降りていく。雨は落ちるだけ。壊れたものは元には戻らない。エントロピーは増大していく。
今この世界に、アメリカに、それぞれの国の人々に必要なのは静かな声だ。謙虚だが強い意思のある静かな声だ。
Vol.9
onoroffと焼きたてのパン 「オノロフ」
料理人にはかなわない。
古くからヨーロッパでは、悲しんでいる人には鳩のローストを食べさせるのが最高のもてなしだと言われている。レイモンド・カーヴァーの小説にも、焼きたてのパンで息子の死を乗り越える両親の話があった。心のこもった料理は、それほどまでに人の心に響く。
音楽を作る人間は皆、人の心を打つ音を作ろうとする。悲しんでいる人を元気付け、イライラしている人をなだめ、恐れる人を勇気付け、なんとも無い人も幸せにしてしまう。そんな音楽が作れれば、これ以上の幸せはない。
がしかし、おいしい料理はそもそも、音楽よりも人の心に響く力を持っている。なぜなら、どんなに悲しんでいる人も空腹になるから。
厳選された素材で手間をかけて作られた焼き立てのパン!こんな焼きたてのパンなら必ず、悲しみに打ちひしがれた人を慰めることが出来るんじゃないだろうか。一日中何も食べず泣き疲れた人は、音楽よりもパンで心を満たされる。
音楽には好みがある。ブルース好きのオヤジが、クラッシックで癒されることはまず無いだろう。だけども、焼き立てのパンが嫌いな人なんているんだろうか?
どこで育ちどんなものを食べてきたかに関わらず、誰でもおいしいと感じる味というものは確かにある。その例が、焼き立てのパンである。
いつか焼き立てのパンに匹敵する音楽を作りたい。オノロフはそう考えている。
Vol.8
ベビー・フェイスとなりたい自分 「フェイス
2 フェイス」
人はなりたい自分になれる。
うち(オノロフ)の相棒のボーカリストであるアチは以前、ベビー・フェイスのアンプラグドライブを見て「この人はもっとうまく歌える」と言った。天下のシンガーソングライタイである彼に、こいつはなんてことを言うんだ、と周囲の人間は驚いた。しかしそれは現実となった。
思えばこれまで、彼の音楽に求められるものは「歌」ではなく「曲」だった。なぜならそれまでの彼は「他人に良い曲を提供する人」として認められていたからだ。しかし、それを極め尽くした彼が次に目標として選んだのは「歌」だった。そして43歳の彼はそれを達成した。
ベビ・フェイスには元々その才能があったんだよ、という人はいるだろう。才能のある人というのは本当にいるのだろうか?映画も音楽もマルチにこなすヴィンセント・ギャロがこんなことを言っていた。「僕にあるのは、自分がこうありたいと考える想像力と、そこに向かうために必要な作業への集中力だけだ。才能なんてない」
人はなりたい自分になれる。
Vol.7
マックスウェルと3つの音楽 「ナウ」
ある本に「音楽には3つの種類がある」と書いてあった。「1つ目はリズムを感じて、体で楽しむ音楽。2つ目はメロディや和声に感動し、心で楽しむ音楽。3つ目は音の組み合わせに感服し、頭で楽しむ音楽」なのだと。そしてこう続く。「音楽は1→2→3の順に進化し、最後の"頭で楽しむ音楽"が一番発達した音楽である。」
バカなことを言ってはいけない。
ここで言いたいのは「リズムが楽しい音楽も尊重しよう」とか「これら3つの音楽は平等で優劣はつけられない」とかいうことでは決してない。そんな、事なかれ主義を言っているヒマはない。
ここで言いたいのはただ1つ、本当の音楽に触れた人なら分かるはずの事実だ。
つまり「優れた音楽は、体でも心でも頭でも楽しめる」という真実だ。
マックスウェルの音楽がそれを証明している。
Vol.6
シャーデーと水中遊泳 「ラブ・デラックス」
このアルバムをウォークマンで聴きながら、横断歩道で信号待ちをしていた。最後のマーメイドという曲が流れ出し、人々がスクランブル交差点になだれ込んだ。その瞬間、自分が水中にいて、みんなが泳いでいるように見えた。マーメイドは見当たらなかったけど、なぜか幸せな気分になった。龍宮城ってこんな感じなのだろうかと。
優れた作品に接すると、普段と変わらない現実がそれまでと違ったように感じられる。例えば印象派の絵を知った人は、夕焼けの色をそれまでより素晴らしく感じることができる。ピクニックで童謡を口ずさめばウキウキした気分になるし、樹海でアニメ映画を思い出せば何だかとても神秘的な所に来たような気になる。
表現者にとってみれば、これは幸せなことだ。自分の信じる世界観を通して、人々は現実に接するのだから。自分の世界観に賛同してくれる人が多ければ多いほど、表現者にとってこの世の中は居心地が良くなり、幸せである。
鑑賞者からみれば、多くの優れた作品に触れられるのは幸せなことだ。なぜなら、どんな現実に対しても色んな世界観で対応することが出来、何ともない世界が素晴らしくなるから。それだけで生きていくのが楽しくなり、楽になる。
優れた作品に出来るだけ多く触れよう。触れた分、あなたは逞しくなれる。
Vol.5
ジェブ・ロイ・ニコルズの音楽の?ヘ 「ジャスト・ホワット・タイム・イト・イズ」
音楽を言葉で人に伝えるのは難しい。本当に難しい。言葉で伝えられるのであれば音にする必要はないのだが、この本からは音が出ないのだから、やっぱり活字で伝えたい。
彼はアメリカ人であり、シンガー・ソング・ライターであり絵を描き版画を作る。ジャケットのアートワークも彼の手によるものである。しかし、これでは音楽の説明にはならない。
彼の音楽を一言で言えば「フォーク+ソウル」とでもなるだろうか。これも曖昧だ。
このアルバムはジャマイカで録音されたという。ジャマイカの音楽製作環境は随分大らかというか、大雑把らしい。収録時間が限界になるとブツっと終わってしまう、そんなレコードもあるという話を聞いたことがある。作ったほうから見ればとんでもないことだけど、なんだか笑ってしまう。
そういう中で作られたこれらの曲には、ホッとさせる何かがある。時に癒し、時に力づける。うんざりするような日々の繰り返しから救われる。人間を信じさせる力を持っている。
そう言えば、うちで何気なくこのCDを流していたら、普段はクラッシックかサザンしか聴かない友達がアルバム名をメモしていた。これはすごいパワーだ。この音楽が強い力を持っている証しだ。
どうやったら伝わるかを悩んでいるうちに彼のサイトを見つけた。ここで試聴することが出来る。やはり聴くのが一番。是非聴いてみて下さい。
Vol.4
ミーシャの技量 「MARVELOUS」
感動をもたらすのに必要なのは「技量」であって「感情」ではない。
今回はミーシャの新譜を取り上げる。しかも3曲目の「愛の歌」だけ。
前にも「陽のあたる場所」というシングルを書いたことのある、佐々木潤という人が曲を書いている。この人の曲はすごくオーソドックスな楽器・コード進行・メロディで作られているので、よく「このコード進行、あの曲と一緒だ」とか「このメロディ、あれのパクリじゃん」とか言われてしまう。
みんながやること。当たり前のこと。それらは理由があって多用される。なぜなら、何かを伝えるときに最も効果的だから。そしていつの日か、みんなに使い古されありがちなものになってしまう。しかしそれは、決して悪いことではない。表現者に必要なのは「いかに最大の効果をあげるか」である。奇をてらう必要はない。しかし効果をあげるには、ストックの多さや組み合わせの柔軟さという技量が必要だ。
今回の「愛の歌」も、出だしはフリーソウル系によくある、電子ピアノとアコースティックギターのポローンというイントロ。その後、ソフトロックにありがちなトロンボーンが入ってくる。それぞれはありがちなものだが、それらをこんなにスムーズに組み合わせているのには驚いた。これこそ技量のなせる技だ。
サビから歌が始まるのも順当。Aメロはメロディを低い音程に持ってきて、バックの音数を減らす。これも定石。そしてBメロはメジャーコードとギターのアルペジオで明るくなり、メロディは徐々に上昇する。そして再びサビ、と。
このサビの音程がかなり高い。サビは高揚感を出すために高めの音程にするのが効果的だが、それにしても高い。このメロディを安定して、かつ表情をつけて歌うのは、ものすごい技量が必要だ。
しかもすごいのが、言葉の内容によって微妙に音程を変えていること。あなたへのおもいを、という「も」の部分はマイナー感のある音程「ミのフラット」で切ない感じを出しているのに対して、後で出てくる雲さえおいこして、の「こ」はメジャー感のある音程「ミのナチュラル」で明るく前向きな雰囲気を作っている。このように歌詞とメロディがリンクすることで、聴いている人が感情移入しやすくなっている。これは効果的であ?驕Bカラオケで歌う人は、是非ここまで挑戦して欲しい。
感動をもたらすのは表現者の「感情」ではなく「技量」だということがわかってもらえただろうか。「この歌にはソウルがある」なんて言うあいまいな言葉に惑わされてはいけない。確かに感情が感動を生むことがある。しかしそれは、充分な技量を備えた人の歌が、感極まって音程が揺れたりリズムが狂ったりする時の話である。
表現者にまず必要なのは技量である。
Vol.3
バーデン・パウエルの音楽 「記憶」
音楽は、高揚感を得るためのものである。
ブラジルのギタリスト、バーデン・パウエルが去年の9月に亡くなった。
彼の最後のアルバム「記憶」が発売されるというので急いで買いに行った。無かった。売り切れだった。そこにちょうど、同じくバーデンの今年発売された「de aquino」というフランス製の2枚組みCDがあった。そのまま帰るのは惜しい気がし、買って帰った。
内容は、演奏会やセッション等ラフなものばかりだったが、さすがに素晴らしいものだった。何より彼の魅力である「切ない高揚感」が詰まった音楽だった。
その後違うレコード屋で、探していたアルバム「記憶」を見つけた。
何よりジャケットが良い。動きのあるハイコントラストな写真。青を基調とし、凛とした雰囲気が出ている。ブックレットのデザインもフランス製とは比べ物にならないほど美しい。印刷のレベルも紙の質も桁違いに優れている。発売元はパルコ。素晴らしい。音楽を音楽として楽しむ人をターゲットにすることで、大手レコード会社ときちんと棲み分けをしている。日本の会社もやるなあ。これからもファミマと無印を贔屓にしよう。家に着き、そんなことを考えながら中身を聴いた。
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そこにあったのは、単なるキレイな音だった。例えて言うなら、味が無く、真っ直ぐ整えられた、農薬たっぷりのキュウリ。フランス盤は録音状態も悪く、ギターの音も安っぽく聴こえるが、音楽が伸び伸びと躍動していた。バーデンの微笑みを、気持ちの動きを感じるには、この録音で充分だった。
改めてフランス盤を手にとる。質の悪い写真も、温かみを感じさせるようになるから不思議だ。もう一度日本盤を聴く。一音一音は本当に良い音だ。録音技術が素晴らしい。しかしこれは何だろう?何かに似ている。そう、一音一音を大切にしすぎて、動きが止まってしまい、聴いている方も眠くなってしまうようなクラッシック音楽!
これから聴く人には、迷わずフランス盤をお勧めします。パルコさん、いっそのことこのフランスの音源も発売しませんか?
(でもね、日本盤の最後の曲「宇宙飛行士」は、やっぱり素晴らしい!この曲だけでも買う価値あります。)
Vol.2
リトル・テンポの猥雑 「ケダコ・サウンズ」
猥雑は、すなわち豊穣である。
今、日本の音楽がこれほどまでに面白いのはなぜか。それは「何でもあり」だからだ。世界中の音楽が入り混じる中で育った人間が、良いと思ったものを全てゴチャ混ぜにした結果だからだ。
今の日本がもし外部から遮断され、新しい音楽を一切取り入れないとしたらどうだろうか?これから音楽を作る人間も聴く人間も、日本古来の音楽からしか影響を受けられない。そんな状況では、音楽が魅力的かを評価する基準は一つだけになるだろう。その基準とは「どれほど純粋に日本の音楽であるか」である。純粋なものほど得がたいものであり、希少価値があって当然なのである。そしてその純粋さは、どれだけ大量にその共同体の中の音楽に接してきたかで得られる。つまり経験の多い者ほど純粋な音楽を作ることができるということになる。そうして必然的に、年功序列のヒエラルヒーが完成する。
確かに、突然変異のように新しいものが生まれ出てくる可能性も否めない。しかしヒエラルヒーの中での常識にあてはめれば、それは全くもって「異質な=純粋でない=価値の無い」ものであり、唾棄すべきものとされるだろう。
これらの結果その音楽は、ますます純粋であり洗練されたものにはなるだろう。しかしながら、日本以外の世界の人々から見てもその音楽が魅力的なものになるとは限らない。その村でしか流行っていない祭囃子みたいなものにしかならない。
今の日本、特に東京には世界のありとあらゆる音楽が氾濫している。リトル・テンポのように、とある南の島の音楽に魅せられ、色濃く影響を受けた音楽を作る人たちがいる。彼らだって普段は、日本を始め世界各国の音楽を好んで聴いている。
世界中に色んな音楽があることを知ってしまったボクらは、リトル・テンポの音楽に色んな希少価値を見出したり魅力を感じたりする。猥雑は、すなわち豊穣なのだ。
Vol.1
ファンタスティック・プラスチック・マシーンの高音 「ビューティフル」
高音とは緊張感のある音である。
ファンタスティック・プラスチック・マシーンの音楽では、緊張感を持ちながらも攻撃的ではない独特の高音が、一定のリズムで繰り返される。そして聴く者に適度な緊張感を与える。
なぜこんなに気持ち良いのだろう。
誰かそろそろ、高音の周波数分布、立ち上がり方などが、耳を通して人に与える作用を、系統立てて整理して下さい。それらを纏めることで見えて来るものが、きっとあるはずだから。
例えば、脳波に直接作用する器具を併用する音楽なんてものが生まれるかもしれない。また、脳波をコントロールする椅子が、将来映画館に標準装備されるかもしれない。
理論は、何かを生み出すために積み重ねられるべきものだ。時代遅れの理論から、ボクらは何も生み出せない。そんなもの、とっとと捨ててしまおう。
Vol.0
イントロダクション
全て音楽から教わった。アメリカで差別があったことも。イギリスが移民とどう折り合いをつけたのかも。ブラジルには軍事政権があったことも。今の僕らが豊かなことも。豊かさは心次第だということも。歌う歌のない人間など1人もいないことも。誰もが言葉を発せずにいられないことも。言葉で足りなければ音で補えば良いことも。音楽は音の向こう側にある気持ちや世界観を伝えるためにあることも。音楽はそれを共有する人たちに勇気を与えることも。
大事なことは全て音楽から教わった。