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科学の世紀と言われた20世紀の最後の10年は非科学としての前近代性(反近代性)の亡霊が各所に出現して近代性に小さなコゲ跡をつけた10年だったと回顧されるだろう。グレイシーが我々に与えた最大の物はポジショニングの重要性でも、マウントパンチの打法でも、ましてやヴァーリ・トゥードの必勝ハウ・トゥでもなく、決闘や血族の誇り、命を賭する覚悟と言った前近代的なプロパガンダだったと思う。 近代と反近代の相克、グレイシーの反近代性への厳正なジャッジメント。という話になると考察が長大な物に成るので省くが、少なくとも、最初のコマを打ったのはグレイシーであり、それ無しには桜庭のキャラクターも存在しなかった事は間違いない。 桜庭は前近代性を近代性によって霧散しようというキャラクター設定によって、単なるアマレス出身のテクニシャンから、全格闘技ファンの欲望を一身に背負う大物にまで上昇した。桜庭がグレイシーの存在と関係なく優秀な選手である事はいうまでもないが、現在ほどの地位に至るにはグレイシー柔術、具体的にはホイス陣営とヒクソン陣営なしにはあり得なかった。 その証拠に、カーロス・ニュートン(復帰おめでとう)戦での桜庭のイメージは「アマレス出身で、寝技の攻防が非常に巧みなミドル級のテクニシャン」と言った程度の物であり、僕は桜庭はこの位置に戻らないと危険だし不健康だと思う上に桜庭の自意識もこの位置への執着があると思うのだがしかし、とにかくニュートン戦での桜庭は藤原喜明に近い物だったし、そういう言説もあったと記憶する。 この試合から後に、桜庭が特訓の末に技術が倍向上したとは考えにくいし、体重もさほど変わっていない。桜庭の変化は、ひとえに「反近代への怒り」による物だ。 そして、反近代にも様々なスタンスがある。 カーロス・ニュートンは「僕は総ての柔術の技術を獲得した末に、球体に成りたいんだ。総の力を吸い取り、無化させる、完全な形態だから」などという「反近代的な」言説をする選手だった。しかし、この発言は「近代にケンカを売る反近代」ではない。内省的で悟り系の東洋思想であって、基本的に平和的だ。 仏教思想やタオイズムを元にしたこうしたニューサイエンス・メディテーション系の悟りと日本が独自に発達させた「武士道(特に、グレイシー議論の中では宮本武蔵の五輪の書を巡る事が多かった)とでは、意味も手触りも全く違う。 前回書いた「日本人が誤解している武士道感」とは、漠然とこういった物までも混同した十束ひとからげの「全近代や悟り」(終戦直後に、ハワイアンもラテンも洋楽はみんな「ジャズ」と呼ばれたように。外人は全部アメリカ人と思われたように)であって グレイシーは、サイドストーリーとして、日本人の、こうした前近代観の衰弱と混乱までを浮き彫りにしたと思う。 勿論桜庭は、ニュートンのこうした発言には全く反応を示さなかった。桜庭が怒りをリリースするのは、自己中心的で攻撃的な「武士道」という「近代にケンカを売る反近代」に触れたからである(前段階では「プロレスラーは弱い」という言説に対する怒りであったが、それはすぐに覆され、沈静化された) これはいってみれば「科学兵器を駆使して幽霊などの悪霊退治をする」といったSFなどで提示される世界であり、近代の勝利を前提とした物で、ここに桜庭はインチキカルトや幽霊をバスティングする科学特捜隊としてのキャラクターを確立し、ホイラー、ホイスを連覇したのである。 ここで僕が重要だと思うことは、桜庭の、特にホイス戦での勝利がここまで訴求力を持ったのは、あの試合が引き分けだからだと思うのだ。 勿論、試合結果は桜庭の勝利であり、引き分けなどではあり得ない。しかし、あの試合を見て「感動した」と発言した人の中で「溜飲を下げた」「悪霊退散。ザマアミロ」という感情を持った者がどのくらい居ただろうか? 我々は現在「近代と反近代は五分五分」という世界観を求めている。 科学が幽霊を退治する5〜60年代を経て(多くのSF)ニューサイエンスや東洋思想にはまった挙げ句に疲れはて、やはりオカルトは近代を凌駕するのではないか?という70年代を経て(「エクソシスト」「ローズマリーの赤ちゃん」がそれを代表する)現在の我々の「安心出来るメンタリティー」は、科学と非科学のぶつかりあいの末に、両者共に尊重される。という作劇に求められている。一勝一敗の五分で21世紀を迎えよう。というのが時代の気分ではないかと僕は思っている。 桜庭の勝利は、ホイスにタオルを投げさせた事よりも「近代、反近代、引き分け」という構図を見せた事が大きい。実際、ホイスは化けの皮を剥がされ、討伐された幽霊というより「負けて尚あっぱれ」という評価を手にした。試合後にエリオと桜庭が握手したシーンが喚起した、非常に安定感の高い「感動」の正体は「勝負終わってノーサイド」だの「ケンカしたら仲良く成って」というセンチメンタリズムだけではなく、我々の意識の中にある「(近代と反近代とが)どちらかが勝ってどちらかが負けて、負けた方が消えてしまう。なんてことに成りませんように」という時代のニーズに完璧な形で答えたからであり、繰り返し強調するが、最初にコマを打ったのはグレイシー柔術側なのである。「近代VS反近代」という構図とはいえ、現在は近代の中にあるわけで、この構図の成立に必要なのは、常に反近代側からのインパクトという事になって、常に「強度を持ったカルト」の出現が待たれ、現れるこの10年だった。オウム事件が国家による討伐によってメデタシメデタシ。という結末を得られずに、永遠かと思われる結末の遅延をもたらしているのを見るに、格闘技という物が現実社会に対して持つ、強い物語生成の力を再確認せずにはいられず、そういう意味でも、ホイスー桜庭戦の完成度は高い。 そして、舟木ーヒクソン戦が我々に与えた沈痛で抜けの悪い感動(桜庭ーホイス戦と、好対照な感動の質)の正体は、舟木の不意打ちのような引退劇だけではなくあの試合が「反近代同志での戦いで、一方の反近代が負けた」という「今、特に見たくもない物語」が展開されしかもそれが美しかった。というアンヴィバレンツだったと思う。時代と寝たような快楽度の高い最新作の後に10年遅れの、しかも名作を見たような感じ。と言って良い。 舟木があそこまでヒクソンと撞着すると予想していた人は少ないだろう。と、いうより「撞着してくれるな(しそうだな。そして、してしまっては、見たくもない物語になる。というネガティブ洞察によって)」という欲望が、舟木が引きこもって鍵をかけた部屋の外では、ヴェルサイユ宮の外での市民革命の蜂起のおたけびの如く渦巻いたのではないか。 そして、この、フランス革命をアナロジャイズした例え話こそ、パンクラスという団体の姿にオーヴァーラップする。 僕は以前、パンクラスが提示できる最も美しい姿は集団自決だと書いた。パンクラスの純粋性と誠実さを信じれば信じる程、そこに導かれる結論は世界に包囲され、追い詰められた果ての集団自決なのだ。あらゆるアナロジーに於いて、パンクラスは越後の白虎隊やジム・ジョーンズのガイアナ人民寺院に相似形だ。 しかし、集団自決の可能性よりも個人競技である格闘技の中では、代表者の自決の方が具体性が高い。 負けたら引退という、ネガティブな覚悟、戦前に頻出した「死」という言説、この段階で「負け=死」という感覚が舟木のオブセッションに成っていた事は明白で、言うまでもないがオブセッションとは激しいナルシシズムからしか生まれ得ない現象だ。 技術攻防に関しての分析は、諸説有るだろうが、僕は舟木はかなりの所までヒクソンを追い詰めたと思うしヒクソンはそれを上回る技術力(決定的だったのはタックルではなく、柔道の崩しと相撲のはたき込みに似たテイクダウンであり、その後のポジショニングが難しい筈であるこのテイクダウンの直後に完璧な横四方を取った神業の如き体重移動だろう)によってそれを制した。この瞬間、舟木のオブセッションが完全にリリースされたと僕は思う。 そして、重要なことは舟木がオブセッションした「死」が、ヒクソンがオブセッションしている「殺」を反作用で引き起こしグルーブした事だ。高田戦に足りなかった物はこれだ。片方に「殺」のイメージがあっても相手に「死」のイメージが生じない限りは、温い一人相撲になってしまい、グルーブは生まれない。この高田の温さは、パンクラスの温さに相当する。 スポーツライクで賞金稼ぎなメンタリティであるバス・ルッテンに顔面をボコボコにされ、一人よがりなナルシシズムによる一方的なオブセッションを爆発させ、死ななかっただの明日からも生きるだのと演説して、外野席以外のファンに冷笑されていた青年軍団カルトとしてのパンクラスは、とうとうそのナルシシズムを100%丸抱えして美しく殺してくれる侠客に巡り会ったのである。ナルシシズムのグルーブ。しかし、そこにあったのは、内向的でデリケートな自分を守るための逃避的ナルシシズムと、誇大妄想的で絶対に負けないための攻撃的ナルシシズムの違いだった。 ナルシシズムとオブセッションに捕らわれた者が、敗北を確信した瞬間に求めるのはマゾヒスティックで美しい死、以外の物はありえない。ヒクソンのマウントパンチはフロイトの言う「懲罰の拳」に見えた。サディストがマゾヒストに対し「お仕置き」という言葉を使うことがアナロジャイズされてもこの際おかしくはない。ナルシスを持つなら自分の様に使え、この負け犬野郎め。殺してやる。殺して下さい。僕は音楽家であるが、SM行為以上のグルーブの場を不幸にして知らない。 舟木は最後の数分間で「遅延された自決」を果たした。そして、切腹フェチから三島由紀夫に至るナルシストの究極芸である自決のエロティシズムを爆発させたのである。日本人の集合無意識に訴えかけるこのエロティシズムは国境や国民性など突破しようとする桜庭ーホイスの21世紀向けの明質な快感に背き、淫靡で暗質な物だ。僕はその事に感動した。感動しつつ、引いた。お茶の間でのテレビドラマに挿入されたベッドシーンを見てしまった家族の誰かのような気持ちで。 (試合後の談話で、舟木は「あのままスリーパーをかけられていたら死んでいた」とか「チョークというのは殺すための物で」などと、すっかりまた独りよがりなナルシス系に戻った。それだったら山本も中井も死を賭したサムライなのか?実にばかばかしい。それに対してヒクソンは「年の功で勝ったよ。舟木にミスはなかった」と余裕の発言。調教師と奴隷の関係はプレイ中だけでのみ平等なのである。) |