その六十
 2000年 1月 16日 日曜日 19:45:00

 自分でも生まれて始めてのことなので少し驚いているのだが、軽い過食症にかかったと思う。
 まだ「過食傾向あり」的な状態なので、よしんば医者に相談しても静観しましょうと言われるレヴェルだと思うが、とにかく喰っても喰っても腹が減り、気がつくとびっくりするほど喰ったりしている。食後に板チョコ2枚を30秒ぐらいで喰った時があって、その時始めて「あれ?」と思ったのだが、この間はラーメンの大盛りを喰った帰り道にどうしてもラーメンが喰いたくなってしまい、コンビニでチキンラーメンを買って喰った。これにはさすがに恐ろしくなったが胸焼けがして「これは晩は喰えないな」と思っていたら胸焼けが自虐的な食欲を誘発し、4時間後(4時間後。というのは満腹中枢神経のメカニズムから言って、最も満腹していなければいけない時間だ)には口の中が涎でいっぱいになってしまい、結果として晩はビフテキ300グラムとサラダとバケット2分の1とリーベンデールのアイスクリームをドンブリに一杯喰って、喰い終わったら腹が減った。
ここんとこ毎日この調子。

 理由は解っている、セックスしなくなったからだ。今時セックスレスなんて珍しくも何ともない、そこらじゅうにゴロゴロ転がっている話だが、一年の内360日はセックスし、内250日位は一日中し、セックス直後にオナニーるすような生活を20年程続け、それを突如としてセックスレスの生活に変えれば、それは影響も出るだろう。1年もしたら要するに中毒対象が移動するだろうな。とは思っていた物の、メシはまずいだろう(苦笑)。何とか飢餓感や中毒対象をコントロールするか、またセックスを始めれば良いのだが、俺の病識の話はともかくとして、今回なかなか格闘技の話にならないのだが、横道ついでに、最近書いた原稿も無意識下にインパクトを与えているかもしれない。

 日経クリックというパソ雑誌に書評形式のコラムの連載が始まったのだが、一回目のテーマが「村上春樹の小説に出てくる食べ物は癒すのか?」という物で、編集者が「菊地さんといえばアメリカ文学と食べ物でしょう」などと言って持ってきたテーマだ。

 それの論旨というのはこういうものだ。人類は、さんざん喰ってから吐いたり、愛してから憎んだり、栄養だと思っていたものを毒物だと言い出したりする歴史の中にいる。アメリカという国はそんな人類の炭坑カナリアなのだ。コカ・コーラには最初、精力剤としてのコカインが入っていた、それが抜かれ、次いで砂糖が抜かれた。21世紀中には「水」が体に悪いとして抜かれるだろうというギャグ。「お砂糖は私の生活に欠かせない、悲しいとき、嬉しいとき、真っ白いお砂糖をひとつまみ。これで幸せ」と歌う、1952年のヒット曲「シュガー」が80年代に「フィット」の勢力の圧力で放送禁止にされ全米砂糖協会と訴訟合戦になったエピソード、みんなアメリカの物だ。

 村上の小説に出てくる食べ物は一貫している。ビール、ドーナツ、フライドポテト、サンドイッチ、ハンバーグ、アイスクリーム、要するにアメリカン・カジュアルフードだ。こういったものは、80年代の「フィットネス・ファシズム」の時代にA級戦犯として吊るされた高カロリーメニューなのである。

 しかし、村上の小説で、こうしたメニューは、そういったキャラでは描出されていない。逆だ。そのイメージはむしろ健康的で、何だか体に優しそうなイメージですらある。

 発表当時は、これは、片岡義夫ばりの「何だかアメリカっぽい雰囲気を出すための小道具」だとか「70年代の中央線沿線のジャズ喫茶のメニュー」だとか言われていた。しかし、舞台設定は70年代、発表は80年代、どちらにせよ、アメリカではベトナム以降の病理的な過食の自己治癒ヒステリーとして肥満や過食が排撃され始めた時代であり、村上がそんなこと知らない訳がないのである。

 現在、村上の初期の作品を読むと、一種異様な感じがする。ハンバーグやフライドポテトやビールが「おいしい水」や「オーガニック食材」のようなイコンとして描かれているからだ。これは世界のヒステリー層に対してナイーブに、離人的に自閉するという態度と、アメリカが「好きなだけ喰ってよかった時代」に対するノルタルジー固着である。いや、極言すればアメリカや村上や年代など関係なく、総てのノスタルジー(固着)は「好きなだけ喰って良かった時代」に戻りたいという憧れなのではないだろうか?これは同時に人生は、いつか「人間はやがて好きなだけ喰ってはいけない」という局面が来る。という事を意味している。

 しかし、90年代に入り、環境汚染やバーチャル・リアルというお馴染みの問題に対してノスタルジー固着や自閉では対抗できなくなった村上は95年の「ねじまき鳥クロニクル」から食事シーンのイメージを一変させる。それは・・・・

 って、うわあ。ぜんぜん格闘技の話題になりません!こういう没入傾向も過食症的だ。やばいやばい。

 80年代までのプロレスラーは飲食店では、他の客をびっくりさせるような武勇伝を開陳する「義務」すらあった。ウイスキーをキューブアイスのクーラーに直接注いで一気のみ。だとか、新幹線のビッフェで、総てのメニューを名古屋までに喰い尽くした。だとか、プロレスラーが「聖性を持った怪物」であった時代だ。

 前田や高田でさえ「道場では先輩におひつに何杯もごはんを喰わされた。もう、喉元までごはんが詰まってる状態にさせられるんだよね。それで体を作る」なんて言っている。これは、実は総て力道山からの伝統なのである。力道山は、まだ未知数の輸入文化であった「プロレスの現場」を立ち上げるに際し、唯一自分が知っている(トラウマも含め)「相撲部屋」を雛形にしたのである。プロレス団体は今でもチャンコ鍋を喰うのである。

 この長い長い伝統に始めてアンチを唱えたのがパンクラスで、パンクラスは「フィット」と言う概念を遅まきながら90年代にして始めてプロレスに採り入れ、開幕戦では総てのレスラーの肉体を従来のプロレスラー体型ではないアスリート・フィットネスな体型に改造して登場。舟木のボディ・メイキングの本が絶賛されるという現象も含め、非常にオウムに似ている。肉体の改造が人生の改造をへて悟りに至る。という狂信だ。しかし現在パンクラスのレスラーから「強い」というオーラは消えてしまっている。時代は健康ではなく明らかに怪物を求めだしている。「ファッショ」とは強大な父性に対する過食症だ。

 過食からフィットへ、フィットから癒しへ。そして癒しから過食へ。という運動はドミナントートニック運動と同じく、実は人類の正常なグルーブなのだろうか?中庸や悟り等とという概念の有効期限は?癒しと言う「休憩」を経て、我々はまた過食期に入ろうとしているのだろうか?とりあえず吐いてもまだ喰う。ということになったら医者に行くことにしようと思う。