加藤春江


1945年 夏

私は挺身隊の一員として被服廠に通っていた。
それも女学校4年生の終り、突然、多賀谷先生がコヨリの先に青や赤や黄色を先にぬり、
色とりどりのコヨリを束ねて、手に持ち、両手で上手によじった。
そして生徒皆んなの席に順番に来ては1本づつ引かせた。
皆んなは赤や青のコヨリを手に持った。

先生は真剣な面持でチョークを持ち黒板に書きつづっていった。
赤―被服廠 青―兵器廠 黄―糧秣廠(りょうまつしょう)………
皆んなは、赤は赤、青は青、と、ひとかたまりになり、わあーわあーきゃあーきゃあーさわいだ。

(皆んな静かにしなさい。皆んな仲良し同吋で行きたいでしょうが、それでは困る人があるんで
公平にする為めに、くじにしたのです)
と云った。
私はいやだった。
被服廠10人と云われた時、仲良しは1人もいなかった。
でも決まった事だから我まんした。食べるものがない時だったので母は喜んだ。
(軍の工場ならおひるも食べられるよ)と云う。何と情けない事だ
と思ったが、これが現状だから仕方がない。

皆んな12時のサイレンが鳴るや、どっと食堂へかけ込み、無言で口にかけこんだ。
皆んなお腹をすかしていた。
でも一般の人はおじやの長い列に並んだり、
パンを買う為めに朝は暗い中から何時間も並んで買う時代だったので
私達は仕事はつらいが食べるたのしみがあったので、みんな休まなかった。




大学前の有名な豆屋で下迫さんと云う人と大の仲良しになる。
部隊長の娘、小川さんと下迫さんと私と3人でいつも仕事をさぼっては
第四倉庫の天井までつみ上げた、棍棒の間にかくれては、
下迫さんが袋いっぱいつめてくる、ピーナッツや大豆のいったのをぼりぼり、かじりながら寝そべり、
しゃべったり3人で3部合唱をして歌いまくる。

被服廠の紙一枚でも糸でも布でも、たとえ一寸でも軍の物だから私物化してはいけないのに、
皆んな帰りの検査をうまくごまかして通用門を通り抜けた。

白い布は体に上手に巻きつけたり、靴下の底へ石鹸を入れたり、一つづつずらないように縫いつけた
ズボンを下にはいたり、色々と男達はせっせと家に持って帰っていた。

いつも帰りの出口の門には守衛が一列に並び一人一人、体をさわったり荷物を開けて見たり、
どの出口も時間がかかって長蛇の列が出来た。
中には守衛と組んで大体的に運び出す連中も目立って来た。
列の中から見ていても、不正がありありと解る連中も沢山いたが誰も訴えなかった。





軍需工場と云うのは、一番上に大佐次に中佐少佐……と沢山の軍人がいた。
事務屋は優遇され、工員は手きびしくが当り前の様なやりかただった。
その為、私達は女学校出と云う事で、それぞれ女工にいじめられた。

事務所に入る前、1ヶ月は現場なので2階の倉庫の階段から、棍棒を一つのせられ、よろよろとよろけた。
まわりの女工達が、おじょうさん育ちはつまらんねー、たった一つも、かつがれんのねーと笑われた。
私は歯を食いしばり必死に落ちそうになりながら一階の下のトラックまで運んだ。

何度も運んでいる中、なれてきて、何ともなくなった。女工さんは、かるがると2ツ運ぶ。
私も負けん気を出して2ツのせる。よろよろとして、棍棒を投げ出し、その上にかぶさって大笑いされた。
2、3度同じ様にこけたが、私は負けなかった。
上の棍棒のナワを力一っぱい持ち、へしゃげそうになる体を必死で支えて、階段を下りた。
それを見ていた女工達が、やるじゃなーい、こんにやあ根性があるでーとはやしたてた。

体が2つに折れるかの様に疲れる。外の友達も女工に悪口を云われるのがつらいので、
皆んな歯をくいしばり、よくがんばった。
色々とあった。




事務所に移ってからは毎日の様に3人、5人と束になって将校の前に引きづり出され、
軍の物を持ち出したと云って宇品の営倉にぶち込まれた。
大声でどなる将校の前にまるで消え入るようにうなだれていた。
工員や女工さん達、あの人達は鉄格子の中で逃げるに逃げられず、どうなったのかなーと、気になる。

この頃はアメリカの飛行機が万年筆をよく、ばらまいた。
それを拾うと、爆弾が仕掛けてあるので拾ってはいけないとよく町内の回覧板がまわった。
宣伝ビラもよくまいた。白や黄色の紙が空から吹雪の様に舞い落ちる。


それを我れいちがちに拾うと、何と乞食が一列に並び皆んな空の茶わんを持ち
(おじや)や(おかゆ)を売る店を書き、そのへりに、日本は負ける、降参しなさいと、
たどたどしく書いてあったり、日本の悪口を書いたりしたものもあった。
皆んなくやしがったが、その通りだったので、じだんだをふんだものだ。

7月頃から本通りの人達もそ開をしはじめ、空き家になると片っ端から軍隊が来て家をこわした。
その頃は、ごはんを炊く木も配給になり、ごはんを炊くにも木が足りないので、
遠くの方から沢山の人が乳母車を引いてきては積んで帰ったものだ。




1945年8月6日

 


この日も朝から下迫さん、小川さんと3人で事務所の机に向かい喋りあっていた。

 

事務所も危ない、と言うので将校の命令どおり、

レンガ造りのごつい金網の張った倉庫の2階にあった大きな柱のそばに私の机があり、

5~6M先の天井に四角な天窓があった。

 

3人が喋っていたとき、突然カマドの火を炊いているときの音の何十倍かと思われるようなボーッという音がした。

 

瞬間、オレンジに赤を混ぜたような火の柱が天窓からサーッと落ちた。

 

3人があわてて机の下に入った。そして、にじり寄りながら大声で「どうなったんかねー!」と叫んだ。

と、同時に私の背中にドスン、とイスが当たり、次々と物が飛んできた。

 

耳の底までゴー、ゴー、と爆風が入る。3人が手をつなぎ、じっと目をつむった。

キャアーキャアー、逃げ回るような声、物が倒れる音、物が壊れたり飛んでぶつかる音、

何分経ったか、いまだにあの長い、と思われた爆風の静まるまでの異様な感覚はハッキリ憶えている。

 

3人が机の下から這い出したときには、みんなの顔が薄汚れて黒くなっていた。

 

お互い顔を見て笑った。「どうしたん? 今のは何やったん?」口々に大声でわめきながら下へ降りていった。

 

3人が事務所に取り残された。

 

廻りを見渡すと部屋の中は歩けないほど、机もイスも色々な物が重なりあって、どうする事もできない。

その中を3人はそろそろと這い出し、階段に出た。

私たち3人は外の人に比べると、のんびり屋さんなのだなーと、私はその時思った。

 

下迫さんが「ちょっと来て」と呼ぶ。

急いで行ってみると事務所にいつも置いてある大きな金庫が階段の中ごろまで飛ばされ、

中のお金がそこら中に散らばっている。

3人は金庫の中にあった白い袋を見つけ、1人がひとつずつの布袋に入れられるだけのお金を入れた。

 

3人とも、ピカだという事も知らず、キャアーキャアー喜びながら詰めた。

 


「誰にも教えんよー」と言いながら、袋をぶら下げて、倉庫の階段を下りて、声も出ないほどびっくりした。

降りたとたん、事務所の男の人が膝をつき、左手で目を押さえた。

指の間から、まるで滝のように血が流れ出していた。

 

私は一瞬胸をえぐられるような気がした。

 

「どしたん?!」

 

「目が飛び出たんじゃ」と大声で叫んだ。

どうしてあげるすべもなく、私はそこに立って、まわりを見回した。

大勢の人が色々な格好でうめき、また、わめいている。

砂煙の中を人々は右に左に走っている。

どうしたのかまったくわからない。

 

ごろごろと横たわった死体にけつまづいたり、ふんづけたり、この世のものとは思えない光景だ。

 

私は思わず知らず走った。

そして入り口の鉄の扉の前に立っていた。

朝だというのに空も何かもが黒ずんだ灰色一色。

ぼーっと見ている中に、その灰色の中からボロボロの着物をまとった人間の一群が

うめきながら段々とこっちへ向かって来るのが見えた。

 

もう一方の道を見た。

やっぱり同じ様にやってくる。足がすくんで動けない。

近づくにつれ、とにかく早く、この場を逃げ出そうと思いながら、やっぱり駄目。

私は食い入るように見た。

 

男か女かわからないが両手からボロ布がぶら下がり、

みんな両手を横にしている。

よく見ると足からも何かボロ布を引きづり引きづり、

うめきながら歩いて、こちらへやってくる。

髪の毛はバサバサ、小さいのや大きいのや、それは数え切れぬほどの人間だ。

 

私は門の外に行き、灰色の中からはっきり見た。

今まで布だと思っていたものは身体の皮がはげ、

その皮を引きづりながら歩いていることがわかった。

 

私はそれを確認し、一目散に下迫さんのところへ飛んでいき、手を引っ張って門のところへ連れていった。

下迫さんは大きな目をぐりぐりさせ唇をふるわせ頬は真っ青。

2人はだまって、門の中にうめきながら入ってくる、子供や大人を見ていた。

 

体中ずる剥けで皮を引きづりながら、歩く人、人、人。

いつまでたっても、この光景が続く。

 




遠くのほうで、いつも聞きなれた将校の声がして、2人は後ろを振り向いた。

その手招きに急いで走った。元気な者は倉庫に行きなさい、という。

たしか大きな 倉庫が7つくらいあり、第7倉庫は戦利品がいっぱいで、

チャイナ服とかネックレスとかいろいろな外国の物を見た、という人が何人もいた。

 

2人が急いで倉庫に入ると、男の人たちが戦地に送る布団綿をどんどん運んでいる。

それを2M位置に高さ30cmくらいに長く敷く。

敷くはしから体中ずるむけの人を次々に綿の上に寝かせる。

 

ちょっと手にでも触るとギャアと悲鳴を上げる。

あわてて手を離す。無理もない。赤身に触るのだから。

でも寝かせるのには、どうしても身体に触る。

あっちでもこっちでも悲鳴と泣き声でごった返す。

倉庫の中も外も怪我人だらけ。元気な者はわずか。

あれだけ何千人もいた工員さんたちはどこへ行ったのか姿がない。自分の家に帰ったのだろう。

 

再び将校さんの声。

「生き残っている人はこっちへ来てくださーい」

下迫さんと2人で行く。白衣を着た軍督がブリキのバケツに真っ白いドロドロの薬を入れた。

2人は手に綿を持ち片方ずつバケツを持ち、怪我人の身体にその薬を頬から手から足からぬりたくった。

 

その間中

「水をくれ、水をくれ」

と泣きながら、叫ぶ。

 

ヤカンに水を入れ口にふくませたり、口がヤケドで開かない人は綿にふくませて吸わせたりしていたが、

今、水を飲ませてあげたのに、と後ろを振り向いて見ると、もう動かない。

行ってみると死んでいる。

 

誰かが大声で

「水を飲ませたら死ぬぞー!」と言う。

また誰かが

「どうせ死ぬんじゃけ、せめて水くらい飲ませやー!」と言う。

 

私はヤカンをぶらさげたまま、どっちにしようかと迷った。

 

前に寝ている人を見ていたら、焼けただれていてわからないが、たしかにお母さんと赤ん坊だ。

ずるむけのお母さんの身体に、隣に寝かされていた赤ん坊が、ちょっと手を伸ばして乳房をつかんだ。

その瞬間、お母さんはうめきながら、その赤ん坊の手をはらいのけた。

赤ん坊は弱々しげに悲しそうな声で泣いた。

 

私はその様をじっと立って見ていた。悲しかった。

涙を両手でぬぐい、ヤカンの口を赤ん坊の口に持っていき水をたらした。

おいしそうにゴクリ、と飲んだ。そして、動かなくなった。

 

誰かが私を呼んだ。

今はそんな感傷にふけっている場合ではないことを直感した。

数え切れない人の山だ。

 

どんどんバケツに薬を入れ、つけてはヤカンで水を飲ます。

この作業の繰り返しで夜が来た。

 


友達数人とむし暑い倉庫の中の何百人という病人、中には死人もたくさんいるので、

たとえ様もないほどのうめき声と匂いなので外に出た。

 

とたん、汗びっしょりの身体が身震いするほど冷え、2本の足は一歩も前進せず、そこに突っ立ったまま。

 

広い広場のまわりの柳の木が風にザワザワとそよぐ、

その下にどっちを向いても、まるで幽霊のような人が2030人づつ、頭の先から足の先まで真っ白。

ただ目ばかりがギョロギョロして手を力無く2本たらして右往左往している。地獄のような風景だ。

 

私たちが薬を塗った、ヤケドをしている人たちが、

やっと歩けるようになって夜の風に当たろうとして、

寝そべったり座ったり、ふうわりふうわりと歩いたりしているのだ、と思うまで何分か、かかった。

 

私たちは今まで辛かった気持ちがいっぺんに吹き飛び、笑いに変わった。

「まるで幽霊みたいなねー」

「びっくりしたー」

と言いながら、涼しい風に吹かれながら、お互いがお互いの家の事、家族の事を話した。

 

それはもう夜9時近いというのに、隣の人の頭がはっきり見えるくらい、

天は炎と火花で真っ赤に燃え上がり、バリバリという音さえ聞こえた。

今考えれば、何 日も天が真っ赤なはずだと思う。

あれだけの建物が燃えて灰になったのだから。

横川駅近くのお米の倉庫なぞ一ヶ月近くも燃えていた。



1945年8月7日

あくる日の朝、仲の良かった下迫さんをお父さんが迎えに来た。

 

「土肥さん(加藤春江の旧姓)も、お父さんが来てくれるよね。それまでここを動かんほうがええよ、

よけいわからんようなるけえ。ほいじゃ、またどこかで会おうねー」

とお父さんの手を持ちながら去っていった。

 

なんだか一人ぼっちになった私はじっとしていられなかった。

よし、とにかく家の者が一人でも生き残っていれば、と思い、

私は救急カバンを肩にかけ、探そうと被服廠(働いていた場所)の門を出た。

 

がんがん日が照りつけ、あっちからもこっちからも火の粉や灰が舞い上がり、

一足歩くたびに灰の中にひざまでつかり、青い炎がいたるところに細いかげろうのように燃え、

なんとも言いようのない匂いがする。

 

後で聞いた話だが、あの青い炎がガスで、吸った人がコロコロと数え切れないくらい無傷なのに死んでいった。

ある人は歯がボロボロ抜け、髪の毛は抜け丸坊主になり、青い斑点が体中に出て死んだりした。

私が生きている事のほうが奇跡なのだ。




被服廠の門から千田町に抜ける道を、死人をまたいだり、

全身ヤケドでうめいて動かれぬ人、とにかく死んだ人とケガをした人ばかり。

生きて歩ける人は、爆風で引きちぎられたような服装で、

ただ大声でお互いに家族の名前を呼んで、みんな半狂乱であった。

 

やがて御幸橋のたもとについた。

たぶん今でいう中学生くらいの人たちが、水、水、と焼けただれた両手を前に突き出し、

通る人に頼んでいるが、誰一人として見向きをするものはいない。

 

どうしてあげることもできない。水道管が破裂しているのだから

炎天下として水一滴出ているところはない。

 

ふと川を見た

牛や馬、人間がまるで空気を詰め込んだ風船玉のようにふくれ上がって川一面に浮かんでいる。

川の水は血でにごり、この世の地獄だった。

水を飲みに行ってそこで死んだ人たちだろう。

あの不気味にふくれあがった唇は今でも頭に焼き付いている。

 

被服廠の門からここまで、普通10分あったら来れるのに、1時間半かかった。

それは死体の顔をひとつひとつ見たからだ。もしや知った人はいないか。

 

それでもまだ私は自分の家の者は必ずどこかで無傷でいるはず、と希望を持っていた。

 

橋のたもとに真っ赤に焼けただれた電車をのぞいた。

電車の底は空っぽ。出口と入り口のわずかに残っている鉄に、

ただ焼けた人間の骨が重なるようにして何体もへばりついていた。

 

それを見ても誰も一言も発さない。私もなんとも感じなかった。

 

道行く人はただ、自分の気になる家族の名を呼びながら歩くだけで、他人の事などまったく無関心。

 

千田町からタカノ橋のほうへと歩く。のどはカラカラ、お腹はぺこぺこ。

ふと右手を見ると市役所の前にひとだかりがしている。

  

列の後ろに並び、まだぬくもりのある、三角の大きなむすびをもらい、

そばの石に腰掛け、むさぼるように外の人たちと食べていたとき、

 

「お姉ちゃん!」

と声がした。

耳を疑った。

よく見ると戦闘帽に大きな救急カバンをかけ、

手に大きな箱をかかえた弟が目にいっぱい涙をためて、

じっと私を見つめて立っていた。

 


 

私はのどがつまり、声にならなかった。

走りより、頭をなでながら

 

「正実どうしよったん?」と聞いた。

 

学徒動員でゴム会社に行っていた弟だが

「ぼくと友達が2人でボイラー室で火を燃やしよったら、

爆風で友達が目の前で溶鉱炉の中へ吹き飛ばされて死んだんよ」

 

「ほうねえ。びっくりしたでしょう。あんたあ、よお助かったねえ」

 

「うん」

 

「その箱はなんねえ」

 

「会社の生き残ったおじさんらがにわとりを取ってきて、焼いて食べさせてくれたんよ。

ほいで、この運動靴をくれたんよ」

 

弟は自慢げに箱のフタをとって見せた。それは大人でも大きいような靴だった。

 

「まあ大きな靴じゃねえ。荷物になるけえ捨てんちゃい」

 

「うん」

 

「それよりカンパンをくれるところがあるけえ、もううて歩いたほうがええよ。

お父ちゃんやお母ちゃんを探す、言うてもなかなかじゃけえ。

被服廠にお姉ちゃんと一緒に帰ろうやあ。水も飲めるよ」

 

「うん」

 

2人は肩を並べ、お互いにびっくりした事を話し合いながら、歩いた。

被服廠に着いて、みんなに親が見つからんので弟を少しの間ここに置いてもらえるかどうか聞いた。

みんなはすぐに「ええよええよ」と言ってくれた。

事務所に私の救急カバンを置き、椅子に座らせた。

私はうれしかった。姉なんだから、と気をよくしていたら、誰かが、

 

「弟さんの手や足にガラスの破片がいっぱい立っとるよ!」

と言う。

私はうれしさのあまり、体を見ることを忘れていたのだ。

シャツを脱がしてみると背中一面に突き刺さっている!

ガラスは全部三角で、先が体に食い込んでいるのだ。

 



友達が

  「外へ言ってごらん。何千人も一列に並んどるけえ。

待ちよったら今日の事にならんけえ。おいで。

うちが軍医さんを知っとるけえ。すぐにしてもらう様に頼んであげるけえ」

と言ってくれたので、弟を連れ、外に出た。

すごい、たくさんの患者だ。

その人は弟の手をひっぱり、人を押しのけ、何か軍医さんに耳打ちし、すぐに弟を座らせた。

 

医師が「一面に突き刺さっとるよ。ハダカでおったんねー」

 

弟は「ボイラー室が暑いんで、ハダカで仕事しよったんです」と答えた。

 

このとき弟はわずか13歳。中学一年だった。

いくら戦争だからといって、こんないたいけな子を学徒動員で借り出すなんて、

まったく日本はなっとらん。と父がよく言っていた。

まったくだと思う。

30分くらいたって、弟のそばにいってみた。

軍医さんが

 

「頭にも刺さっていましたよ」

 

「え!」

 

「全部で64こあったよ」

 

「まあ!かわいそうに」

 

抜いた跡から血がブワっと出ている。

私はちり紙で拭きながら、

「よお我慢したねえ」と言った。

痛かっただろうに。

私は涙が出た。


    弟はそれから9年後に、右太ももが痛いので医者に行ったところ、

レントゲンで見ると、障子の桟が入っている、という事で手術した。

そのときに刺さっていたことにずっと気付かなかったのだ。

15センチくらいの木が出たことを知った。

 


 

1945年8月8日以降


被服廠というところは軍人がいばっているところで、人数が合わないととても面倒なところで、

夜暗くなるとそれぞれ班が集まり、召集ラッパで1列に並び、点呼をとる。


私たちのところは16名で、だんだん家に帰る人が出るので、減るたびに班長が報告する。

その夜も一番うるさい山上少佐が来る。

一、二、三、と聞くと顔を見ながら、歩く少佐に見つからぬように

チビの弟をみんなが背中でかばいながら、

手で弟を次へ次へと見つからぬように反対の背中へ送る。


私はみんなの親切さが身に沁みて、よく泣いた。


このことを知った将校の人たちが自分たちの配給の果物を

「おい、坊主、これ!」と言って私の机の上に置いていってくれる。

そのたびに私は涙を拭いた。


配給のごはんが私一人分しかないので弟に食べさせると、

それでも足らず、暗くなるとみんなと一緒に食堂へ、ご飯やおかずを盗みに入った。

私たちだけかと思い、そっと行くと、知った人たちと鉢合わせになり、

大笑いになり見つかって、何度も怒られた。


しまいにはみんなが盗むので、食堂のおばさんたちもお手上げ。

真昼間からみんな早いものがちで盗んだ。

盗むことは嫌だが、弟がお腹をすかせてはいけないと、いつも先に食べさせ、

私はそれを嬉しげに横で見ながら残りを食べた。


9時前、突然警報のサイレンがけたたましく鳴った。

ピカから何日目だったか覚えていない。




誰かが「敵機よ!」「空襲よ!」と叫んだ。

私は腹ばいになり、私の体の下に弟を押さえつけ頭に座布団をかぶせた。

たとえ私が死んでも弟を死なせては、と必死にかばった。


やがて爆音が消え、みんなホッとした。

「ひつこい敵機じゃねー」と誰かが吐き捨てるように言った。

助かってよかった、と胸をなでおろした。


そこらのイスを寄せ集め、イスの上に弟を寝かせ、私は机にうつぶせになって夜を明かす。


やがて夜が明け、どこからか陽の光が射した。

私は弟を起こし、鉄の門の扉の上に、2人でよじのぼり、火の手が上がり、

燃えている道を時々人の行き交う姿を指差しながら


「あら、ありゃ父ちゃんじゃないかねー! 正実、よう似とるよ。見てみんさい」

と言うと、弟もニッコリ笑って、穴があくほど見つめる。

その人は段々近づいてくる。

2人が期待に胸をはずませ、息も止まる思いで見ているのに、あっけなくその人は横道に入っていく。


2人は目を合わせがっかりする。

また、気を取り直して次の男の人を見る。

何時間も何時間も来る日も来る日も。

2人の朝のひとつの行事のように、鉄の扉に張り付いて見た。

その甲斐もなく、ついに父の姿も母の姿も見ることはできなかった。




だんだんと市役所や福屋百貨店や銀行の前などに、

死んだ人で身元の解かった人の名前が張り出されている、と誰かが教えてくれた。


2人は風呂敷包みにカンパンを入れ、死亡者の名前が張り出してありそうな場所を

次から次へと、汗びっしょりになりながら歩いた。

名前をひとつづつていねいに声を出して確かめた。だいぶん歩いた。

どこの看板にも父の名も母の名もなかった。


「正実、ひょっとしたらお母ちゃんは己斐のほうへ逃げとるんかもわからんよ、

遠いが、明日は2人で行ってみよう。日が暮れんうちに被服廠へ帰ろうやー」


「うん」


なんとなく弟の声はがっかりしていた。


「帰りに家のところへ行ってみようやー」


「うん」


ピカが落ちてから初めて、我が家のほうへ行ってみることにした。

家が残っているとは最初から信じてはいない。


どこを見ても屋根の瓦がそっくりそのままの形で灰になっている。

それを踏むとヒザのあたりまでブスっと灰に埋まる。私たちはヒザまで灰につかりながら、

電車道がこうじゃけえ、このへんが道で、ここから何軒目がどこで、

と見当をつけ、こうでもない、あそこでもない、と

2人で歩きまわった。


やがて目に止まったのは、お茶のときに使う抹茶の茶碗だった。

焼けて色が少し変わっていたが、まぎれなもない、それは母が自慢の萩焼の高価な物だった。


ふと、そのそばに丸い真っ黒な丸太棒ががある。よく見ると顔のようなものがある。

2人はそばに寄り、じっと見た。


母に違いない。


でも手も足もなく、ただ丸太棒だ。真っ黒い炭だ。




私は恐る恐る、その丸太棒に爪を立てて掻いた。まるで炭の粉が落ちるようにガリガリと音がする。

よくよく見ると、かすかに目のふくらみと唇である事がわかった。


髪の毛はチリチリに頭一面に押さえつけるように焦げてくっつき、触るとポロポロと落ちた。


「こりゃあ、やっぱりお母ちゃんよ。一瞬でこうように焼けたんじゃろうねえ。。」


と言い、そばを見た。


頭がなく、両手の肘から先がなく、灰になった肋骨に細い針金がすーっとくっついている。


手で触り掘ってみると、もものへんから肉がつきているのが見えた。

後ろのほうへ回って驚いた。


首の白骨にへばりついた小さな白い布を見て、父のシャツである事がわかった。


父はいつも夏はチヂミの白いシャツにチヂミのステテコ姿で、

見覚えのあるマークのついたシャツを私は覚えていた。

なぜ、それだけが焼けずに白骨にへばりついているのか。


「お父ちゃんが、自分だとわからすために、これだけは焼けずに、へばりつけといたんじゃねえ」

と私はひとりごとを言いながら見た。不思議でならなかった。


これが父母の姿で、これで2人とも死んだんだと心の中で納得しながらも、

それでも、どこかへ逃げて、元気な姿を私の前に見せるのではないかと、

来る日も来る日も、炎天下を弟と歩きまわった。




ちょうど鷹ノ橋の交差点の所を歩いていたら


「春江? 春江じゃないんね?」

 

聞いたような声なので振り返った。

汚い大きな麦わら帽子にモンペをはき、わらぞうりをはき、

背中にはひっくり返るほどの大きな重そうなリュックサックを背負ったその人は立ち止まった。

よくよく見ると町野のおばさん(親戚)だった。

平常は母の妹でも、母があまり付き合いをしないので、なじめなかったが、

このときはなぜか神の救いのような気がして「おばさーん」と弟と二人でそばにかけ寄った。


「おばさん!」


「お姉ちゃんは?」

 

「わからんのよ。まだ家へ帰っとらんけえ」

 

「どうしたんね。大きなリュックをおうて」

 

「昨日、乙斐のタネ屋にうずら豆を買いに行っての。お金を出してオツリをもろうて帰ろう、

思うたところへ、ドサっと家がくずれて下敷きになって、這い出す のに一晩中かかって。

今どうでも乙斐を集合場所にしとるけえ、乙斐へ今から戻ろうと思うんよ。

うろうろしたら、みんながバラバラになるけえ。

焼けてなかったら、己斐駅近くの踊りのおばさん言うたらわかるけえ。

そこが避難場所にしとるけえね。もしお父さんお母さんが見つからなんだら、そこへきんさい。

ほいじゃあ、またね」


「うん、わかった」


おばは元々そっけない人だが、その時も一人でしゃべりまくって、あっけなく去った。

弟と二人であっけらかんと、その後姿を見送った。





弟と私は疲れた、腹がへった、2人ともただ黙って並んで橋の上に立ち、少しの風でも浴びて涼しくなりたかった。
何か淋しげに川面を見ている弟に、
「もーちいと歩いて何こうの方へ行って見よーやー。どこかで水が出よるかもわからんよー」
「うん、おねえちゃん行こう」
と弱々しげに云う弟をはげましながら元安橋から平川へと歩く。

本川橋のたもとに昔から名の通った丸金という、せともの屋の所で弟が、
「お姉ちゃん、めげてない茶わんがあるよ」
「あーほんと、こりゃーお母ちゃんが茶の時使うお抹茶の茶わんの様なね。ええもんよ」
私は手に取りヒビ焼のうす茶にモミヂをあしらった茶わんをていねいにまわしたり、ひっくりかえしたりして見た。
外のものは粉々にくだけたり、割れているのに、丁度同じ茶わんが2つだけ、壊れずに灰の中にあった。
「拾おうやー」
と云って私は2つの茶わんを大事に救急かばんにおさめた。

少しはなれて弟が、
「お姉ちゃん、カンヅメがいっぱいあるよ」
と云う。私は歩いていってみた。
手でさわるとカンがぬくい。振ってみた。
ドボンドボンとにぶい音がした。弟が石を拾って来て
「空けて見よーやー」
と云う。おなかがすいていたのだろう。
私は弟の手から小石を取り、石の上にカンヅメを置いて2、3度とがった所で叩いた。
カンはすぐに穴が空き、指でこじあけるとすぐに空いた。
今思えば何も知らない2人は、ただ何かが食べたいばかりに放射能の当たったものとも知らず
湯気の立つ様なぬくもりのあるミカンの缶づめを2カンも食べた。
まだ、たくさんころがっていたが
「又、どこかににもあるよーねー」
と弟が惜しげに後をふり返り、ふり返り先を急ぐので去った。




もうどれ位歩いたのだろう。2人はまた、元気を取り戻し先へ先へと歩いた。
どこまで行っても焼野原とカンカン照りに、2人はものを云う元気さえなかった。
どこをどう歩いたのかさっぱりわからんが、段々と日が暮れ出して来た頃、
やっと己斐駅のまわりの家は少し焼けずに残っていた。
駅近くの家に入り、町野のおばに教えてもらった通り、
「この辺に踊りの先生の家はないですか?」
と私が聞いた、
「はあ、はあ、その家なら2軒隣よ」
と人の好さそうなおばさんが云った。

私は弟の手をひっぱる様にして、その家をのぞいた。
居た。
まぎれもないお姉ちゃんと町野のおじさんだ。
私は泣きながら
「お姉ちゃんー」
と叫びながら弟の手を引っ張って抱きつき、おいおい泣いた。
姉は私を見るなり、目から大粒の涙をこぼしながら、声にならない、うめき声の様な、
何を云っているのか、さっぱりわからない。
のどにつまった声で私と弟をかわるがわる頭をなでながら抱いた。
その時のあのぬくもりを私は今でもおぼえている。
丁度お母さんに抱かれている様な気持ちだった。
弟は何も云わずにただ涙をこぼしながら手でふき鼻をすすっていた。

おじさんを見ると足から血が出て動けなかった。
すわったままあの優しい目で
「春江さん、よかったのー。けがもせんでよう助かったのー。はあ心配せんでもええよ。
おじさんはちょっ怪我をしただけじゃけー」
「うん」
私は泣きながら、うなづく。





私は弟を市役所の前で見つけてからは、迷子になってはいけないと、ずっと私の手と弟の手をはなさなかった。
一寸でも目を離したら、二度と逢えない様な恐怖感があった。
可愛くて、可愛くて、どうしようもなかった。
やっと姉も私も泣きやみおじさんのそばに座った。
「春江さん、あんたー、おばさんを見なんだ?」
とおじさんが聞いた。

私はタカノ橋でリュックサックを背負ったおばさんの話しをした。
おじさんは吐き捨てるように
「あのバカ、家に帰って見んでも、ここが避難場所に決めてあるのに、
まっすぐここ来りゃーええのに、このオッチョコッョイが」
とひとりごとを云いながら怒った。

私は父や母の死骸の事を姉に話した。
姉は私の頭をなでながら泣き泣き聞いた。
弟はポカンとして、まるでふぬけの様にすわって聞いていた。
「仕方がないねー。こうようにひどい状態じゃけー。
ほいでも、あんたらが生きていてくれただけでもお姉ちゃんは嬉しいよー」
と云いながら又泣いた。

「お姉ちゃんも大きな音と一緒にガタガタと家が崩れてね、
天井の梁の下敷きなってね。まわりがまっ黒になってね。
ようよう、這い出したのはええがね、ガラスの破片だらけなんよ。
下駄をさがしてもわからんし、足の裏が痛うてねー。
隣を見たらねー、あんたと同じ名前の春ちゃん云う娘さんよねー、

あれが「助けてー助けてー」云いよってんじゃがねー
引っぱり出す事が出来んのよー。見たらあれの子が立っとるじゃーない。
うちやー向こう見たら火がこっち向いて来よるじゃーない。あわてて4つの子を脇腹かかえて、
逓信局まで逃げたんよ。ほいだらすごい人がね、いっぱいおって、

「又こっちへ火が来よるぞー」云うて、おらぶけー反対側へ逃げりやー、又、火がこっち向かってくるんよー。
どうしようか思うとった。えー具合にその子のおばあちゃんが見つかってね、その子を渡した。

とたんにすごい勢いで火が向かって来るじゃーない。
逃げ場がないなってね、皆んな泣くやら、おらぶやらでね。
男の人が「川へ飛び込めー云うて」云うじゃない。
皆んなドンドン川へ飛び込むけー、うちも飛び込んだなーええが、深うて川の水が熱うてねー。
浮いたり、沈んだりしよったら、兵隊さんがねー、大きな声で「これにつかまりんさい」云うじゃーない。
見たら大きな材木をうちに流してくれたんよー。うちやー礼を云う暇がないでしょー。必死でつかまったんよー。
ほいたらその兵隊さん云うたら親切でねー。泳いで来て向こう岸までつれてってくれちゃったんよー。
岸へついてねー、ホッとして始めて、うちやーよう泳がんのに気がついてねー」
と始めて笑った。私も弟もつられて笑った。

「ほーよーねー。お姉ちゃんはよう泳がんのじゃったねー」

「ほーよ、あんたはよう泳ぐのにねー」
と云った。
お姉ちゃんも大変な目にあったのだなーと思った。




色々な話を色々な人から聞いた。
下敷きになって助けてーと泣き叫ぶ子供を、どうする事も出来ず炎の中に置き去りにしてしまったとか、
背負っていたはずの子が気が付いて見ると、どこで落としたのかわからずそのままになった人とか、
その時はそんな事はあっちでもこっちでも聞くし、現にお父さんやお母さんが黒こげの死体や
近所の子供の死体なぞ沢山見ているので、あまり驚きもせず、ああこの人もかと軽く考え、あまり悲しくもなかったが、
今思えば私が子供を一人でも 死なせたとしたら、私はどうなるであろうと空恐ろしくなってくる。時代だなー。
私の時代に2度とこんな悲しみがあってはならないと強く思う。

陽がだんだんと暮れ始め、皆んな疲れ切って、横になっていた。
踊りのおばさんの声がした。
ふと見ると色の白い背の高い着物のよく似合うおばさんが
「何もいいものがないが、おなかがすいたでしょう。食べなさい」
と云って、丸いお盆に湯気の立つ真白いごはんと漬けものとお茶を持って来て呉れた。
涙が出た。嬉しかった。

優しいおばさんだなーと、ごはんを食べながら、箸を持ったまま流れる涙をふきながら食べた。
何日目だろう、こんなにおいしいごはんを食べたのは…

ごはんを食べ終わった時、家の外で町野のおばさんの声がしたかと思うと、
おばさんは例の大きなリュックサックにきたないムギわら帽子、地下足袋にわらじといった格好で姿を現した。
「ありゃーあんたらー、はあーきとったんね!ここがようわかったねー」
「うん。人に聞き聞き来たんよ」
「ほいであんたらのお父さんやお母さんはどうじゃったんやー」
「はっきりはわからんが多分黒こげになっとったんが、そうじゃ思うんよ」
姉が
「うちが明日でも明後日でも行けたら行って骨を拾うてくるけー」
「そりゃー困ったのー」
おじ
「何が困るんならい、バカがどこをうろつきよるんならい。
春ちゃんもまさみちゃんも親が死んで可愛想にわしらが見てやらんにゃーどうするんならい。
のー、いよいよおばさんはバカじゃけーほっとけ。ありゃー踊ったり、跳ねたりしよりゃーえんじゃゆー」
おばは口答え一つせず、あっけらかんとした顔で
「敏江さん、このリュックにゃーウズラ豆がいっぱい入っとるけー。まあ一週間位はこりよ食べよりーや。
そのうちに 何とかわしがするけー、心配せんでええよ」
と云いながらムシロにリュックを降ろしながら
「あんたらーごはん食うたんねー」
「うん」
「ちょっとわしにも頂戴やー」
叔母は仲良しの友達なので、遠慮などないらしく奥の間にいっておばさんと笑って話しながら何か食べていた。
おじさんは
「敏江さん、敏江さん」と姉を頼りに色々と相談していた。





私と弟は土間のムシロの上でウトウトと眠り始めた。どれくらい時が経ったのだろう。
コケコッコーと、それはきれいな、甲高いニワトリの声にふと目がさめた。
横を見た、弟が何事もなかった様な顔をして、スヤスヤと眠っている。
よかったなーと思った。おじさんが
「春ちゃん、寝られなかったん?」
と寝たまま声をかけた。
「いいや、寝たよ」
姉もおばさんも、まだ眠っていた。

私は眠れないので6日からの事を順々に思い出していた。
これから先、どうなっていくのかなーと少し不安があったが、横に寝ている弟の顔を見ていると、
これからは、この弟を一生懸命育ててやらねばと、姉らしい気持ちになった。
姉が起きおばが起きた。
「なんでー、いつまでもここへおるわけにゃーいけんけー、みんな起きて一、
まず白岳の人の避難場所は牛田の河原じゃけー、近所の人も多分集まっとろう思うけー、みんな行こう」
とせきたてた。

私は弟を起こし背中のワラを手ではたいて落とし、弟の手を引っぱった。
おじさんは右手と足をケガしているので、ツエをつきながら、おばさんとソロソロ前を歩いた。
私と弟はその後に姉と5人がひとかたまりになって、ギラギラとするような炎天下をとぼとぼと進んだ。
歩いて行く中、みんなノドが乾き、腹がへった。
少し残っていたカンパンを分けて、かじりかじり歩いた。



どこかに水がないかと、あっちこっち探したが、どこにも見つからず、
皆んな土手に座って、何も云わずお互いに顔を見合わした。
弟がかわいそうでならなかったが、どうする事も出来ない。
おじさんも首に巻いた、汚れた手ぬぐいの先で顔の汗をふきふき、私と弟をかわるがわる見ていた。


多分、親が死んでかわいそうにと思ったのだろうと思う。
「もうちーと、先へいったら水があるかもわからんけー、みんな歩こうかのー」
と叔父さんが云ったので、みんなたいぎかったが腰を上げた。
ヂリヂリと焦げるのではないかと思う程暑かった。
どこまで行っても影がひとつもなく、ただ薄汚れた服を身につけた人達が
ただ無言で走る様に行き来していた。

空は真っ青に白い雲がぽかりぽかりと浮き、空だけ見ていると、
まるで今までの事がうその様に思われた。
歩き歩き、父や母の死にざまを思い浮かべていたが、不思議に悲しくもなく、淋しくもなく、涙が出なかった。

遠くに神田橋が見えた。どれ位歩いたのだろう。朝からずっと水一滴も飲まず歩いた。
おじさんが時計をはめていた男の人に
「今何時ですか?」
と聞いた。
「4時前ですよ」
と一言云って足早に去って行った。
私はよく歩いたなーと弟がかわいそうになった。

少し歩いて行くうちに、おじさんの知っている近所の人達に出会い、白岳の方の生き残りの人達が
神田橋の河原にみんな集まっているので、そこへ行きなさいと教えて呉れた。
おじさんが
「春ちゃん、もう、ちいとじゃけーがんばって行ってみようー」
と云う。

私はだまってコクリとうなずき、弟の手をひっぱる様に歩いた。
弟は13才なのに。愚痴ひとつこぼさず、朝からほとんど口もきかず耐えていた。
がまんしているんだなー、せめてお母ちゃんだけでも生きていてくれたらなー、と
この時程、母の存在と云うものを意識した事はなかった。
私なぞどうなってもいい、この弟だけには苦労さしたくないと強く思った。





どんどん歩いて行く中驚いた。
遠方を見ると人間のかたまりがうごめいている様に見えた。
今までに、こんな人間が集まっているのは初めて見た。だんだん近づくにつれ、ますます、びっくりした。
河原の砂の上にボロ布ボロの板をどこから集めて来たのか、砂の上にケガ人が至る所に寝て、
その病人にボロ布やボロの板ぎれを張りめぐらし、そのまわりに人、人、人。
砂のある所はすき間のない程の人。

やっと枯れた木の根元のまわりの 少しあいた所にみんなが陣取った。
隣を見ると、へしゃげた鍋やら、キュウリやじゃがいもが砂の上にころがり、
奥を見ると女の子が何枚もの板ぎれを並べた上に寝かされ呻いている。
顔はよく見えないが、両方の足のひざ下を深く一直線に割れた様に切り血がにじみ何か小さな物が動いているので、
「どうされたんです?」
と中に入って、そのお母さんに声をかけ、よく見ると、
その傷口の中から、真っ白いうじ虫がポロポロと這い出しては 足からすべって落ちていた。

私はそれを見たとたん、身ぶるいした。まだ生きている人なのに、なんでうじ虫がわくのかと、その時思った。
後でわかった事だが、何十万と云う人が死に、異常にハエが発生し、それが死人やケガ人にたかるので
そうなった事を知った。どのケガ人を見ても大抵うじ虫が手や足に這っているのを見た。
「おじさん、すごい人じゃねー。どの位おるんかねー」
「今近所の人が云うたが、3千人か4千人、この河原におりそうじゃいいよったでー」
「えー、3千人も。ほいじゃけー人間のかたまりのように見えたんじゃねー。。」




誰かが「川の向こうに1軒 家が倒れかかっとるじゃろー。あの家の庭の水道が、ちぃとづつ水がでるでー」
と大声で云う。
そばに居た人達はその男が指差す方を一斉に見た。私も見た。
私は叔父さんの水筒をわしづかみにし、他の人とワアワア云いながら橋を渡った。
橋のたもとにきれいな娘さんが立って手招きした。
何と親切な人かなーと思った。
皆んな我、いちがちに庭の水道に向かった。それぞれ入れ物に順番に並んで入れている。
チョロチョロの水なので、なかなか順番がまわって来ない。

ふと見ると、その娘さんが
「あなたお母さんは?」
と聞いた。私は
「お父ちゃんもお母ちゃんも死んだよ」
と云った。
「まぁー、かわいそうに ほいで今、誰と?」
「お姉ちゃんやおじさんやおばさんと一緒に、今、河原に来たんよー」
「ほーねー。うちもお父さんが部隊長で戦死してねー。お母さんが死んで、今、弟と2人でここに居るんよ。
母屋は焼けて、離れが倒れかけとるけど、何とか2人が寝られそうなんよ。明日から遊びに来んさいやー」
「うん。ありがとう」
ふと離れのガラス戸を見ると、弟さんがガラス越しにみんながキャァーキャァー騒いで水を飲むのを見ていた。
こんなに広い庭でお金持ちだったんだなー、とその時思った。

ようやく私の順番がまわって来たので水筒に水をくんだ。
座って水筒の水がいっぱいになるのに時間がかかり、まどろこしかった。
いっぱいになった水筒を持ち
「ありがとう」
「いいえ、いつでもおいでねー」
と優しい言葉にもう一度顔を見た。
まん丸い顔。目もまんまるく、小さいな口で背もあまり高くなく、可愛好いえくぼが見えた。
後にこの人とは10年近くもつき合う事になった。


水筒をぶら下げ、みんなの所へ帰り、まず弟に飲ませ、順番に飲んだ。
朝から一滴の水も飲んでいないので、みんなひと口ゴクリと飲むと顔を見合わして笑った。
この時ばかりは嬉しく、親の死んだ事も忘れた。





そろそろ陽が傾き、川風がそよそよと吹き始めた。
何せ何千人の集まりなので、どこも蜂の巣をつついたようにガヤガヤしていた。
それぞれが思い思いに板ぎれでかこったり、ボロ布ではりめぐらしたり。
私達は何もないので焼け残りの小さい板ぎれを何十枚も河原のデコボコの上に並らべ座った。
おばさんがどこからか焼けて真黒になったレンガを5つ6つと、デコボコだらけの鍋を下げて帰って来た。
見ていると、そのレンガを上手に積み上げそのボロ鍋をかけた。

リュックサックをあけ、例のウズラ豆を両手ですくって鍋に入れ、川の水の流れで洗った。
それをレンガの上に乗せ、又いなくなった。
私はただボーっと座って目で叔母を追った。
叔母は河原にころがっている木の板をかかえて来て、モンペのポケットからマッチを取り出し火をつけた。
デコボコの鍋から湯気が見えたので、腰を上げ中をのぞくとクツクツと豆が煮えていた。

もう日が暮れ暗くなった。
「豆が煮えたよー」
と叔母が云う。
塩も何もないので味の付け様もなく、食べたくても箸もお皿もないので冷めるまで待った。
少し冷めてみんな、てんでに鍋に右手をつっこみ、左の手のひらに豆をのせて食べた。
味もすっぽもなく、ただ豆の臭いだけがしたが、食べる物がないので仕方なく食べた。

何とか腹も落ち着き、叔父が
「あんたら寝んさい」
と云ったが、生まれて始めて河原の板ぎれの上に寝る事が、まず弟が可愛想でならなかった。
でも弟と横になった。
何んとか背中の方は板ぎれの上だが、何枚もの板ぎれなので背中が痛い。
足の方は板ぎれもないので砂だらけになった。

上を見るとお月さんがこうこうと見え、まわりの人達のガヤガヤ話す声でなかなか眠れない。
それでもウトウト眠った。
どれ位経ったのだろう。あまりのかゆさに目がさめた。
風は気持ちよく吹いていた。月の光りでみんなを見た。みんな寝ている。
起こしては悪いと思い、手や足をそっとかきながら夜明けを待った。

あれだけガヤガヤしていた河原がしーんと静まりかえっているのには驚いた。
白々と夜が明けていった。私は体を起こして手や足を見た。
出ている所はヤブ蚊にさされ、真赤にはれ上がり、顔中ふくれ上がって、そこらじゅうがかゆい。
そのうち弟もかゆいかゆいと起き、次々と起きた。
「こりゃーひどいのー」
と叔父さんが云う。
皆んなそうだから仕方がないと思った。
弟と2人で川にヒザまで入り、かゆいのでゴシゴシこすった。冷たい水が気持ちよかった。




朝が来て、又、みんな元のガヤガヤになった。
ザワザワと何千人もの人が思い思いの事をする。
あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。
叔母は昨夜の通り、また、ウズラ豆をたいている。うんざりである。
この豆をいつまで食べるのだろうと思った。

でも、この豆のおかげで何とか生きていれるのだからと我慢した。
一日中何もする事がなく、例のお姉さんの所へ水をもらいに行って話をするか、
その周りの人と、恐ろしかった空襲の話をするかで一日が終った。
風呂の代わりに、暑いので川につかって遊ぶかである。

そこらじゅうにヤケドの人が寝ている。
隣のヤケドの人は利ちゃんと云った。
やりてばばあぁの様なお母さんがどこからともかく、キュウリやじゃがいもをもらって来ては、
それを大根おろしですり、それを傷口につけていた。
娘が泣き叫ぶのを叱りつけながら、一日中それをくり返した。
後でその利ちゃんはうっすらヤケドのあとはついていたが、ケロイドにはならなかった。
今考えると、あのお母さんはえらい女だったんだなーと思った。

ちょうど一週間、来る日も来る日もウズラ豆で食いつないだ。
叔父さんはほとほと困り果てたなーと思ったのだろう。
しまいごろになると、腹を立てた。
お姉ちゃんはただ黙って考えこんでいたが、突然、
「近所の人がねー、牛田の奥の方は焼けてないので、畑のカボチャを盗みに行こう云うてんじゃが
行ってもえーかねー」
叔母、
「えーよー。この際じゃけー、盗んだ云うても警察がおるわけじゃーないし、行きんさい、行きんさい」
「でもみんながあんたー、おとなしいけー見張りをしときんさい、云うてんよー。
うちらが盗むけー誰か人が来たら 知らせてくれりゃーえーけー。あんたにもカボチャをあげるいうて」
私はびっくりした。
こんなのろまでおとなしいお姉ちゃんに、ほんまに、こういう事が出来るのかと思った。

やがて陽がとっぷり暮れ、誰かがお姉ちゃんの耳許で小声で話した。
その人の後ろについて、お姉ちゃんが歩いていった。
私は盗みに行くんだなーと思った。
いい具合に行けばよいが、とそれだけを思った。
そうしないと明日から食べるものがなかったからだ。

だいぶ経ってお姉ちゃんが嬉しそうに緑色の大きなカボチャをかかえて帰って来た。
「春江!これ!」
「えかったねー。よう見つからなんだねー。何人が行ったん」
「8人よ、うちが見張りじゃったんじゃけー」
「誰もこなんだ」
「うん」
叔父も叔母も砂の上でグーグ寝ている。
弟は海老の様に体を丸く曲げて寝ていた。
姉の手からカボチャを取った。
重かった。私は嬉しくなり、頭の上の方において寝た。そのうち姉も寝た。

朝になり叔母が
「敏江はようやったのー 生まれて始めてこーよーな事を、ようしたのー」
「ほーよ、うちやー胸がドキドキしてねー。いつ人が来るか来るか思うて気が気じゃーなかったよー」
「又、今日も夜行こういうてんじゃがねー。月夜はだめなんと。
なるべく、曇り空の時で月が隠れとる時にしよういうてんよ」
私はおかしかった。
こんなおとなしいお姉ちゃんが泥棒なのかと思い顔を見た。
私が
「うちも連れてってーやー。うちなら上手に盗むよー」
「バカを云いんさい。あんたに泥棒のまねなんかさせりゃーすまあ。いけんよ」
と姉が云った。
私は腹が立った。
なんで私を仲間にしてくれないのかと思った。




私はすぐ思いついた。
「お姉ちゃん被服廠へ行ったら、まだセメン袋に入ったメリケン粉があるはずよ。
あした2人で行こうやー。うちやー食堂のおじさんをよう知っとるけー頼んでもらうけー」
「えー?メリケン粉がそーよーにあるん」
「ほーよ。うちやーまだ机の上に布やら糸やらいっぱい置いて来とるけー、それもちゃんとしてこにゃーいけんしねー。
兵隊さん用の皮の靴も3足持っとるんよ。お兄ちゃんが戦地から帰って来たらあげよう思うて」
「とにかく明日行って見ようやー。知っとる人がいっぱいおるけー。
うちの荷物も取りに来るまであづかってもろうとるけー」
「うん。ほいじゃー行こうかー」
「行こーやー。メリケン粉がありゃあー助かるでー」
弟をつれて行きたかったが、何せカンカン照りで、まだ燃えている所もあるので、かわいそうで連れて行けず、
姉と朝からとぼとぼと被服廠へ行った。

行ってみると、人、人、人 けが人と死人の山。知っている将校さん達が
「どうした?見つかった?」
と聞く。聞かれるたび
「お父さんもお母さんも死んだけど、お姉ちゃんが見つかったけー、今、牛田の河原に寝よるんよ」
と答えた。

そのたび将校さん達は
「弟さんを連れて、ここへ帰ってきなさい。家をなんとかしてあげるから」
と云ってくれた。その親切な言葉も耳に入らなかった。
ただ、お姉ちゃんのそばにいるだけで私はよかった。
安心していた。

でもお姉ちゃんはその言葉のやりとりを聞き可愛想に思ったのだろう。
「春江、メリケン粉をもろうて2人でかついで帰ったら、正実をつれて被服廠へ来んさい。
いつでもうちらー河原におるけー、いつでも来りゃーえんじゃけーここの方がえーよ」
という。
私は困り考えたがそうする事に決めた。




メリケン粉1袋で、私と弟がいたら何日食べられるかなーとすぐに思った。
5人より3人の方が、少しでも長く食べられるとすぐ思った。
「お姉ちゃん、そうするよー。ほいで皆んなが被服廠におらんよーになったら、河原行くけー」
「うん。そうしんさい」
私は姉を連れて急いで食堂に行った。
メリケン粉の袋が積み上げてあるのに目がついた。
そばにいたおじさんに
「メリケン粉を一袋ちょうだい」
「うん やるよ」
とセメン袋いっぱいに入った重たい袋をくれた。
姉は嬉しそうに私を見て笑った。
姉はこんな小さい妹がこんなに役に立つという事をほめながら涙で目を真っ赤にした。
私は嬉しかった。
嫌いだった、被服廠なのに。
こんなに喜んでくれた事で胸がジーンとして涙が出そうになったがこらえた。

そして袋のはしを2人で持ち、また元来た道をとぼとぼと河原へ向かった。
重いので、少し歩いては休み、少し歩いては休んだ。
2人とも照りつける陽に汗びっしょりになった。
何時間歩いたのだろう。

ようやく河原にたどりついた。
まわりの人はみんなうらやましげに見た。
私はほこらしげにみんなを見た。叔母が 立ち上がって
「暑かったじゃろー。えらかったのー」
と云ってくれた。

袋の口糸をほどいた中には、真っ白いメリケン粉がいっぱい詰まっていた。
まわりの人がうらやましげに見ていた。
どこで手に入れたのか、叔母が少しの塩を手に入れて来た。
「そのかわり、いうちゃーいけんのじゃが、ちいとメリケン粉をくれーやー、持ってってあげるけー」
「えーよ」
私がいうと、気兼ねげに鍋に入れて持っていった。

叔母は忙しげに水を汲みに行ったり、木の板を取って来たり、1人で歩きまわっていた。
私は疲れたのでボーッと見ていた。
叔母はどこで拾って来たのか、茶わんや箸を置いていた。
例の如く鍋をかけ、グツグツ煮ていたと思ったら、塩の湯にダンゴを入れた、ダンゴ汁を作って食べさせてくれた。
初めてみんな満腹感を 味わい、寝た。

朝起きると又、蚊に刺され、そこらじゅう真っ赤にはれあがっているのに、始めの様にかゆくなくなった。
慣れたせいだろう。
姉を見ると、私の方を見てニコッと笑ったが、心なしか淋しそうだなーと思った。
叔母が起きて来て、又、昨夜と同じ様に忙しく歩きまわり、ダンゴ汁を作ってくれた。
弟の方を見た。
文句一つ云わず食べている弟を見ると胸が締め付けられるようで涙が出た。

食べ終わって、少し砂の上に座って、川の水の流れるのを弟とぼんやり見ていた。
姉が
「春江、正実をつれて行きんさい」
と云った。姉を見た、
唇を真一文字に歯をくいしばり涙をこらえていた。悲しかった。
これでもう一生会えないのではないかと思った。
でも、ここへいつまでも一緒にいては、お姉ちゃんは結婚して町野へ行ったんだから、
2人がいては気兼ねだろうと、すぐ思った。
「わかった、行くけー」
と弟の手をひっぱり、立たせた。

叔母が
「体に気を付けんさいよー。あっちにおれんよーになったら、すぐここへ帰ってきんさいよー。
ここを立ちのいて、よそへ行く時にゃー、ここの板ぎれへ行先を書いといてあげるけんねー」
「うん、わかった」
2人が手をつなぎ、河原の土手を後をふり返りふり返り歩いた。
姉はいつまでもいつまでも涙を片手でぬぐいながら手を振っていた。
2人共黙って歩いた。



市役所の近くにトラックが止まり、トラックの周りに人だかりがしていた。
弟の手を引っぱるように駆けていって見た。
トラックの上に箱がたくさん積んであり湯気が見えた。
真っ白のエプロンのおばさん達がトラックの上から下にいる人達にむすびを渡していた。
2人は
「ください」
と云って、手を上げてむすびをもらった。
いったい何日目だろう、ごはんを食べるのはと思いながら、黒ゴマのついた大きな三角ムスビを食べながら歩いた。
指についたごはんを一粒でも落とすまいと、2人は指をまわしてなめた。おいしかった。
まだ食べたかったが、一人ひとつなのでがまんした。

「おいしかったねー」
「うん」
弟がうなづいた。
私ががまんしてやればよかったと後悔した。
でも被服廠につけば何とかなるとすぐに思った。

御幸橋を吹く川風は気持ちよかったので手すりに並んで風に当たった。
このかわいい弟の為ならどんな事でもしてやろうと水をながめて思った。
たいぎがる弟を引っ張る様にして被服廠に向かった。
門をくぐると何ともいえない、髪の毛をやいた時のにおいが鼻をついた。
 



広場の真中に大きな火が見えた。バリバリと音をたて炎がメラメラと燃えていた。
「ありゃーどしたん?」
とそばを通る若い男の人に聞いた。
「毎日死体を200人づつ積み上げてねー、まわりに焚き木を積んで燃やしよるんよー」
「え!」
「ほいでも間に合わんのよー」
と吐いて捨てるような言葉つきで走っていった。

2人はただ黙って燃える火を見ていた。
時々油が燃えるのか、ジュッジュッと音がして、真っ黒な煙が昇った。
こりゃー大変な事がおきたなーと、その時思った。

2人は倉庫2階の事務所に入り、私の机に向かった。
1人、男の人がいた。私の隣の机の男だ。
「どーしたん、帰って来たん。家がないんねー」
40過ぎの男だが、いつもみんなに、年上の女房持ちやーがって、くそ生意気な、と嫌われていた男だ。
あまりの軽薄な言葉に腹が立ち
「うん」
と一言云った。

2人が机のそばまで行くと、その男はどこかへいった。
2人はガランとした事務所の椅子に座り
「みんなどしたんかねー。おらんねー」
とひとり言を云った。
いつまでたっても誰も来ないので外に出た。

知っている中尉さん、久保中尉が来たので聞いてみると、
みんな、家族が見つかって田舎の方にいったり、焼け残った親戚に行ったとの事だった。
あのいやな男も2、3日して田舎へ帰るのだと云った。
将校連中と大工の朝鮮人の人が7、8人と、後は2、30人の男の人、女は私と後、2、3人しかいなかった。
食堂のおじさんはずっといて残っている人達の食事を作ってくれたので、私と弟はちゃんとしたものを食べられた。




【回想。1年ほど前】

被服廠に入って1週間目。現場で皮の作業を並んでみんなとしていた時
「土肥さんちょっと」
と班長が呼びに来た。
その時から久保中尉の秘書になった。

何百人もいる(挺身隊)の中からたった1人選ばれたといって、休憩時間もみんなにハネにされ、
誰も物を云ってくれず泣いて泣いて休んだ事もあった。
その時父は笑いながら
「さすが将校は目が高いのー。春江を選ぶのはのー」
と喜んだ。

母も
「泣く事はないじゃない。休まんと行かにゃー、困ってよー」
と云った。
あの有名な久保代議士の息子さんだ。
大きな目でキューピーのようだなといつも思っていた。
秘書といっても、軍人なのでハンカチを洗ったり、封筒の表書きをしたり、靴をみがいたり、
将校用のメロンだなんだとぜいたくな品を取りに入ったり、殆ど 遊んでいた。
皆んなは汗びっしょりで働いているのだから、よほど私がにくかったのだろう。

そのことが久保中尉の耳に入り
「皆んながいじわるするんだったら、今から事務所に行かして上げるね」
と云い、連れていってくれた。
そこで下迫さんや小川さんと仲良しになった。

【回想終わり】




その久保中尉が私と弟を尋ねてくれた。
「お父さんやお母さんが死んだんなら、うちへ来ない?」
「でも、お兄ちゃんが中支那へ行っとるけー、いつ帰って来るかわからんから、お兄ちゃんを待つ」
と云った。
「でも支那ならいつ帰れるかわからんよー」
「ほいでも待つ」
と私はうなだれた。
久保中尉は困ったげに
「ほいじゃーねー、いつでもええけー、気が変わったらきなさいよー。この紙へ住所を書いとくけー待っとるよー」と
2人の頭をなでて去った。
私は嬉しかった。なつかしかった。




【6年後、昭和26年】

あの日から6年 目牛田行きのバスの中でぱったり会った。
ソフトの茶の帽子にたてじまの背広の上下、こげ茶のカバンを持って座っていた。
たくさんの人の中で 私は思わず
「久保中尉殿」
と叫んだ。
まわりの人がみんな私を見た。
私は昔のままで呼んだはずなのにと思ったが、戦後6年、もはや軍人ではないと直感。
「すみません」
と、すぐあやまった。


「いいよ。もう殿は止めてーよ。今はね東洋工業の重役をしてるんよ。その後どうしてるの?心配していたんだよ。
弟さんと一緒?」
「はい。今、牛田の美容院に一緒にいます」
まわりの人が2人の話を聞いているので、私はそれだけで止めた。
別れてから思った。
あの時何故、すなおに弟をつれて行かなかったのか後悔した。
今は遠い遠い出来言の様な気がする。
行っていれば私の運命は変わっていただろーなーと思う。
ちょっとした神のいたずらかなーとも思う。




【昭和20年に戻る】

被服廠に1ヶ月あまりいた。
朝、目が覚めると、弟と2人で食堂に行き、ごはんを食べ、それが済むと弟は大工さんの所へ行く。
5、6人一列に並んで座り、せっせとおじさん達は小さな骨箱を作る。
仕上がると2ツ3ツづつ、弟が私の所へ運んで来る。
私は広場に積み上げられた死体の髪を、ハサミで3cm位、切っては、その骨箱に入れフタをして、
門の近くの机の所まで運んで行く。
そこには机の後ろに大きな紙を張り、死人の名前を張り出してある。
その机には、2、3人の人がいて、どんどん骨を取りに来る人にその骨箱を渡す。
誰が誰のものやら、さっぱりわからないのでかわいそうな気がしたが、
もらう人はみんな自分の家族のものと信じ切ってもらっていった。

そのうち、だんだん死人も片が付き、少しづつ人がいなくなった。
私もそろそろお姉ちゃんが恋しくなり、河原にもどる事を弟に話した。

今までとはうってかわって、まめまめしく働いていた弟だったので、云いにくかったが、思い切って弟に話した。
「お姉ちゃん、どうして? どうして? ここにおっちゃあーいけんのん?」
と云った。

「う、ん ほうじゃーないんじゃがねー」
といいながら事務所でイスを並べて、その上に毛布をかぶって、2人だけで寝る事が、
私にには淋しくて淋しくてたえられなかったのだ。
弟は私を頼り信じ切っていたので、淋しくなかったのだろうが、私はこれから 先、どうしようかと、
いつも考えていたから、あくる日、大工さんやみんなに別れを告げ被服廠を出た。

歩きながら弟は楽しげだったが私は楽しくなかった。
一体これからどうなるのかと不安でいっぱい。
ひょっとしたら、あのお母さんの黒こげの死体は、よそのおばさんの死体で、ひょっとしたら、
お母さんはどこかへ避難して、ケガでもして寝とるんじゃないかなーと思ったり、
色々と生きている事を想像して歩いた。




やがて前にいた牛田の河原にたどりついた。
相変らずたくさんの人がうごめいていたが、日がたつにつれ、皆んな自分の寝る所をさがして少しづつ移動し始めていた。
みんな顔色も前よりは少し活気がある様に思えた。
思い思いどこから拾ってきたのか、小屋も前よりは少しましになってきた。

雨でも降ればみんな頭がずぶぬれ。
雨が上がれば、裸になって服を干し、又着る。
髪も洗わねば身体も洗わず、みんな頭にも服にもしらみがいっぱい取りつき、
全く用事のない者ばかりが集まって、昼間はお互いにしらみ取り余念がない。
みんな嫌だとも思わず情けないとも思わず、
ただ 当然の顔で知らぬ同志がしゃべりながらしらみを取っている。
何とも異様な光景を見た。
私と弟は幸い建物の中で寝起きしていたので、雨にも降られず、しらみがわかなかった。


気持ちが悪かったが行く所もないのでまた、姉達の所へ行った。
黒く陽焼けした姉が涙をいっぱいためた目で優しく、
「どうしよった。元気じゃった!」
と迎えてくれた。



3m四方位の広さに板ぎれを敷き、天井はなく、まわりを三方板ぎれで囲った、狭い砂の河原に弟と腰を下ろした。
弟は何も云わず疲れたげに川の流れを見ていた。
ふと、弟があんなにはしゃいで骨箱をはこんでいた姿を思い出し、ここへつれて来た事を後悔した。
つとめて弟を相手に小石を拾って川に投げて遊んでやったり、何かないかと焼けあとをさがして色々な物を拾って来たり、
一生懸命だった。

何んとかしてお父ちゃんやお母ちゃんの事を思い出させまいと一日中機嫌をとった。
夜はその為か、がっくりと疲れはて、耳もとで蚊がブンブン取んで来ても叩く力もなかった。
狭いので丸くなって板ぎれの上に寝た。板のきれ目であっちもこっちも痛かった。

一体こんな生活がいつまで続くのかと不安はどんどんつのり、
かんかん照りに座って考えていると、だんだん頭が痛くなり、川に歩いていっては頭から水をかぶった。
どうにもならない事に気付くと、無情に母が恋しくなり、弟の顔を見た。
淋しそうな目で私を見る。

私はこの弟をつれて焼け残った家を一軒づつまわっては、誰か知人はいないかと見た。
でも、知人は一人もなく、また、悄然と河原に帰る。

朝・昼、晩と、田舎からトラックがむすびを配ってくれる。
それも1人1個なので、何としても腹がへる。
みんなむすび一個を宝ものの様にして、少しづつ噛んでゆっくり食べている。
たったこの間までごはんなんか気にもしなかったのにね、何と情けないなー、とその時思った。




誰かが
「白岳の方でミカンをくれるじゃと」
と云った。
姉は私達に食べさせようと思ったのだろう、
その声をきいた、とたん、さっと立って皆んなが走り出した群に一緒になって走っていった。
あんな、のんきな姉さんがこの頃は、しゃんしゃんになったなーと驚きながら走るのを見ていた。

やがて姉が汚らしい、でこぼこのバケツに半分位ミカンを入れて持って帰って来た。
中をのぞいてアッと驚いた。姉が
「春江!みかんいうても、冷とうミカンよ!」
と云った。
生まれて初めて氷のついた、冷たい、少し色が変わったミカンを見た。
初めてなので気持ちが悪かったが、ひとつ取って皮をむいた。
ガシガシと音のするようなミカンの、匂いも味もない、ただ冷たいだけのものだったが有難かった。

もう今頃では、父や母の事などすっかり忘れ、ただただ、食べたいだけで日が暮れていった。。。

「ピカの続き」に続く




加藤賢崇2011.8.6記 [ 2009年に80歳で亡くなった母が残していた、1987年頃に自分の被爆体験を大学ノートに綴った手記があって、テキストに起こし、いつか発表しよう

と 思いつつ、ずっとサボっていましたが少しづつ進めて公開することにしました。ぼくが死ぬまでに完結すればいいかな~と思っていますが。

原本は手書きの細か い文字で改行もないビッシリとした文章が何冊ぶんなので、相当時間がかかると思います。。

しかし、読んでると、つい「はだしのゲンと同じような内容になっちゃうしなあ」と思ってなかなか進まなかったんですが。。

なんとか違う視点を見つけるようにして残します・・。 ]


加藤賢崇2014.8.12記 [  その後少しもリラ イト作業は進まなかったのですが、読んでいただける方がたくさん増えたことを知り、更新をまた少しづつやっていくことにします。

たくさんの方から、ご感想 いただいておりますが、個別にご返信できなくてすいません。母に変わって御礼申し上げます。

従来アップした部分のレイアウトを少し変え、改行を増やして読 みやすくしました。まあ過度にデザインしたレイアウトに変更することは今後もないと思います。

以前の文章中、8月7日に町野のおばさんという親戚が出てき ていたのですが、原本を読み返すと同じ状況が後の方にも登場したので、

これは本人の記憶の重複で、後に会ったほうが正解なのであろうと、描写を統合しまし た。


原本をスキャン=PDF化したものを別にアップしましたので、さらにご興味のある方はご参考にしてください。http://www.manuera.com/kenso/19450806.pdf

2015.8.7記 pdfの冒頭の説明文に、メモをクリックしてください、とありますが、これはアクロバットやMacのプレビューなどで閲覧する場合に対応した機能で、

ブラウザには対応しておりませんでした。わかりにくくてすいません。)


加藤賢崇2014.9.15 [ その後、原本をスキャン=PDF化したもの、上記のさらに続きのぶんを別ファイルでアップしましたので、さらにご興味のある方はご参考にしてください。http://www.manuera.com/kenso/194509.pdf

加藤賢崇2015.8.12 [ そ の後、友人の愛謝 紅壇鼎さんのご協力を得て、pdfでアップしているぶんまでの文章をテキスト起こしを完了しましたので、追加しておきます。
今後は8.6以前の部分を起こ して、原爆投下以前の戦時中の生活を残しておこうと思いますが、気長にお待ちください。よろしくお願いします。

加藤賢崇2016.6.29 [ 再び、愛謝 紅壇鼎さんのご協力を得て、8月6日より前の部分、導入部のテキスト起こしを追加しておきます。pdfでアップしていた原本部分の冒頭、NO18〜19に当たる部分です。

加藤賢崇2016.7.19 [ 愛謝 紅壇鼎さんのご協力を得て、その後の母の手記、原爆投下後、終戦後の市民生活について書かれた部分を新たに 「ピカの続き」にアップしています。この後は、戦時中の緊迫感とはまた違ったニュアンスになりますが、ご興味のある方は読んでみてください。よろしくお願いします。]