京浜兄弟社と
アルトキスタジオと
マニュアル・オブ・エラーズと
マニュアル・オブ・エラーズ・アーティスツ


0. 京浜兄弟社の由来

そもそも京浜兄弟社というのは加藤賢崇、岸野雄一、伏黒信治などの在籍したバンド「東京タワーズ」のファンクラブの名称として、1983年頃に常盤響によって名付けられたものでした。東京タワーズ解散後は、バンドのメンバー達自身が自ら京浜兄弟社を乗っ取る形で名乗るようになります。

1. 有限会社以前

その頃の京浜兄弟社は、単なる音楽家達の寄り合い的な集団の名前でした。現在のマニュエラ関係アーティストを含む複数の音楽家たちがなんとなく関わり、渋谷のロックバーNYLON100%や押上の岸野雄一宅、公園通りにあったCSV渋谷を拠点にそれぞれの音楽活動を続けていました。またCSV時代、スタッフとして働いていた岸野雄一、常盤響、山口優らは、仕事と称して新たなアーティストの発掘を続け、音楽仲間を増やしていきました。時々は京浜兄弟社という名前でライブイベントを催したり、オムニバスのCDやテープを発表したりはしていましたが、その関係は非常にゆるやかでした

2. 録音スタジオ「ALTOKI STUDIO」誕生

1989年、山口優が、自宅に16トラックの小規模レコーディングスタジオALTOKI STUDIOを設立。京浜兄弟社関係の様々な録音物がここから生み出されるようになります。

3. 京浜兄弟社登記

その2年後の1991年。京浜兄弟社は岸野雄一氏が初代代表取締役となり有限会社として新たなスタートを切ります。有限会社京浜兄弟社は関係アーティストの活動をサポートする活動を行っていましたが、まだ企業として営利的な事業を行っていたわけではありませんでした。

4. Manual of Errors開店

1993年春、京浜兄弟社は、山口優の後輩から場所提供の話をもちかけられたことがきっかけで(最初はレコーディングスタジオを作る計画でした)、高円寺に中古レコードショップManual Of Errors(通称:マニュエラ)をオープンさせることになります。常盤響や岸野雄一らが仕入れの中心となり、古今東西のモンドなレコードを収集、販売するという業務を本格的に始め、京浜兄弟社の会社としての活動の中心はショップ経営の方に移っていきました。

5. ALTOKI STUDIO、プロダクション化

ショップマニュエラの経営も一応軌道に乗ってきた1994年。一方ALTOKI STUDIOは、その機能を単なるレコーディングスタジオから音楽プロダクションへと拡張。山口優・岡村みどり・蓮実重臣を中心に、それまで個別に活動を行っていた京浜兄弟社関係アーティストを集め、そのトータルマネージメント業務を行うようになりました。初代マネージャーは、マニュエラの初代店長でもあった高井康生(現在Ahh! Folly Jetとしてアーティスト活動中)。

6. 統合・社名変更

音楽制作プロダクション(ALTOKI STUDIO)と、日本初のモンドレコードショップ(マニュエラ)の両方を統合させた幅広い活動を目指し、有限会社京浜兄弟社は1996年春、その社名を有限会社マニュアル・オブ・エラーズに変更。日本IBM社を退社した伏黒信治氏(元東京タワーズメンバー)が代表取締役に就任し、表現活動にかかわることのすべてをフォローすることを目標に再び新たなスタートを踏みだしました。ショップの横にデジタル録音スタジオとオフィスを設立し、またビル一階ではマニュエラカフェもオープンさせ、毎週末にDJ・ライブイベントを行うようになりました。

7. 分社

1998年4月、それまで会社的にはレコードショップと統合運営していたプロダクション部門が、有限会社マニュアル・オブ・エラーズ・アーティスツという名の関連会社として独立。同時に渋谷区神宮前に、常盤響の個人事務所「マーズ・アート・ラボ」と同居する形で移転しました。代表取締役には山口優が就任。両社は同じマニュアル・オブ・エラーズという名前の元に、現在も兄弟会社として経営されています。

8. マニュ・ア再度移転

1998年11月、有限会社マニュアル・オブ・エラーズ・アーティスツが青山から渋谷区宇田川町に移転し、現在に至ります。



なお現在「京浜兄弟社」の名前は岸野雄一が個人プロジェクト名として使用しており、「アモンデュール1と2のような関係で(笑)」(スタジオボイス誌)共存しています。


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